ウスタシャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウスタシャ(Ustaše)とは、クロアチアに存在した民族主義団体。ファシズム政党でアンテ・パベリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した。農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし反資本主義を目指していながら私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの思想を強く受けているのが特徴である。
第一次世界大戦後に誕生したユーゴスラビアは建国当初からセルビア人に国の中枢が牛耳られており、民族意識が強いクロアチア人の反発が絶えなかった。ウスタシャはクロアチア人のこうした反セルビア感情に付け込んで勢力を伸ばした。打倒セルビアの為には暴力も厭わないパベリッチは民族意識を煽り、ユーゴスラビア政府に関係する機関へテロを繰り返した。1934年には時の国王アレクサンダル1世が、フランス訪問中にウスタシャのメンバーの手にかかり暗殺される事件が起きた。
ユーゴスラビア政府はウスタシャを取り締まったがその後もクロアチア人によるテロは止む事が無かった。
パベリッチは当初イタリアのファシスト党主ベニート・ムッソリーニから援助を受けていたが、やがて北のナチス・ドイツとも関係を強化し、1941年のナチスの侵攻を契機にクロアチア独立国を設立した。パベリッチは独立と同時に国家元首となり、ヒトラーやムッソリーニを真似て単一政党による独裁国家を樹立する。他の政党はすべて非合法化され、ナチスのように自分の親衛隊を作った。また国内に強制収容所を建設しセルビア人は元よりユダヤ人やジプシー、更には同胞のクロアチア人の反対派を大量に逮捕・収監した。特に悪名高いヤセノヴァッツ収容所は「バルカンのアウシュヴィッツ」と呼ばれている。
以後1945年に至るまで、クロアチア国内では凄惨な殺戮劇が繰り広げられた。この期間中に70万人ものセルビア人が殺害されたと言われているが、正確な数ははっきりしていない。一方、セルビアも「チェトニク」と呼ばれる組織がクロアチア人を迫害しており、この双方の遺恨は後の冷戦終結後に勃発するユーゴスラビア紛争において再燃する事となる。
旧ユーゴスラビア政府関係者は侵略に対し果敢と立ち向かったが、彼らの抵抗組織「チェトニク」はセルビア人が主流であり、旧体制と同じく様々な問題を抱えた組織であった。士気が低い彼らに代わりユーゴを解放したのは、パルチザンの闘士ヨシップ・ブロズ・チトーであった。
1945年にクロアチア独立国は崩壊し、行き場を失ったパベリッチはスペインへ亡命する。そこでフランコ政権の保護を受けながら、新生ユーゴ領内やヨーロッパ各地に潜伏しているウスタシャ残党と連絡を取り合い、再び祖国復権の夢を実現させようとしたがその夢はかなわず、彼自身はこの地で果てている。
一時的にせよ、ヒトラーの援助を受けながらクロアチアの独立を果たしたパベリッチであるが、彼自身は終始暴力を背定しており、その過剰な政策が後のユーゴスラビア紛争の遠因になった事を考えれば、彼の行動は評価に値するものとは言い難い。