カール・ロベルト・ネッセルローデ
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カール・ロベルト・ネッセルローデ伯爵(露:Карл Васильевич Нессельроде、独:Graf Karl Robert von Nesselrode, 1780年12月14日 - 1862年3月23日)はバルト・ドイツ人の貴族で、帝政ロシアの外交官、政治家。外務省長官(外務大臣)、首相を努めた。19世紀ヨーロッパの保守派政治家の代表格であり、神聖同盟締結に寄与した。
1780年12月14日ポルトガルのリスボンに生まれる。父親も帝政ロシアの外交官であり、リスボンには大使として赴任していた。ネッセルローデ家は、ウェストファーレンに起源を持つが、その後、リヴォニアに移り定住することとなる。母親がプロテスタントを信仰していたため、イギリス大使館で洗礼を受け、イギリス国教会に所属する。ネッセルローデは、ベルリンのギムナジウムで教育を受けたことと、1787年父がプロイセンの宮廷に大使として任命され、赴任したことによってドイツ人としての血統を強く意識するようになった。
16歳の時、父親の影響でロシア海軍に入り、パーヴェル1世により、w:aide-de-campに任命される。彼は間もなく陸軍に移り、更にアレクサンドル1世の外務省に入省する。ハーグ勤務を経て、念願のベルリンにあった駐プロイセンロシア大使館に赴任する。
1806年8月、ネッセルローデは、ナポレオン麾下のフランス軍の情勢を探るために南ドイツに派遣された。外交担当書記官として、カメンスキー将軍、ブーホーデン将軍、ベニングセン将軍Bennigsen の司令部に随行する。翌1807年1月のアイラウの戦いに従軍し、ティルジットの和約ではフランス側と交渉の補佐に当たった。
1814年、国務長官に就任。ウィーン会議では、ロシア全権代表団の首席となるが、交渉のほとんどを皇帝アレクサンドル1世が担った。1816年、イオアニス・カポディストリアス伯爵の後任として、外相に就任。以後40年の長きに渡り、ネッセルローデはロシアの外交政策を指導し、ウィーン体制を維持する観点から神聖同盟を主導した。1845年から1856年には、帝国宰相を務める。1848年にドイツ、オーストリアで三月革命が勃発し、ハンガリーでコッシュート・ラヨシュLouis Kossuthがオーストリアからの離脱を宣言すると、オーストリアの要請でロシア軍を派遣し、独立運動を弾圧、事態を沈静化させた。バルカン半島及び地中海にロシアの影響力を拡大しようするネッセルローデの試みは、オスマン帝国(トルコ)と、トルコを支持するイギリス、フランスとの間に緊張を生み、1853年クリミア戦争が勃発した。英仏両国は、ロシアの勢力拡大を危惧し、ロシアを牽制するため、トルコを支援することを決定した。クリミア戦争は、産業革命で近代化・工業化に成功した英仏両国が、農奴制を残す前近代的なロシアを圧倒する形で幕を閉じる。戦後、ネッセルローデは、ロシア全権としてパリに赴き、パリ講和条約を締結した。1862年3月23日死去。1866年自叙伝が出版された。
[編集] 参考
- この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
[編集] 関連項目、外部リンク
- ウィーン会議
- アーヘン会議
カテゴリ: ブリタニカ百科事典第11版 | 帝政ロシアの政治家 | 1780年生 | 1862年没