オーストリアの歴史
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オーストリアの歴史について詳述する。政治・文化・人物誌などを含んだ総合的な年表を付記する。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] オーストリア辺境伯領の成立
[編集] ハプスブルク家と神聖ローマ帝国
詳細は神聖ローマ帝国を参照
1249年にバーベンベルク家が断絶するとオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、ハプスブルク家のルドルフ1世が領有し、以後ハプスブルク家の支配が続く。ハプスブルク家が本拠にしてからのウィーンは政治、経済、学芸の中心として繁栄していくことになる。 1438年以降は神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が世襲するようになり、15世紀にはマクシミリアン1世は結婚政策でブルゴーニュ、フランドル、スペインにも家領を持つようになる。
マクシミリアンの孫のカールはスペイン王カルロス1世となり、フランスのフランソワ1世と熾烈な皇帝位争いをへて神聖ローマ皇帝カール5世となった。スペインは大航海時代の成果として新大陸に植民地を有しており、ハプスブルク家は「太陽の沈まない帝国」となった。
しかし、ドイツではマルティン・ルターの宗教改革がはじまり、神聖ローマ帝国は動揺した。弟のフェルディナントはモハーチの戦いで敗死したラヨシュ2世からハンガリー・ボヘミア王の位を継承し、ハンガリー、ボヘミアもハプスブルク家の支配下におかれた。これによってハプスブルク帝国は多民族化が進むと同時に第一次ウィーン包囲以来オスマン帝国と勢力圏が接するようになった。1556年カール5世が退位すると、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承し、フェルディナントがオーストリアと皇帝位を継承した。フェルディナント1世は1555年のアウグスブルクの和議で兄皇帝に代わりプロテスタントに一定の譲歩を示す形で和解したが、以後の皇帝たちはカトリック重視の政策をとりプロテスタント諸侯との対立を強めた。
カトリック強硬派のフェルディナント2世が即位すると1618年にプラハ窓外放擲事件が起き、三十年戦争が始まった。フェルディナント2世は神聖ローマ帝国を「カトリック帝国」にすべく戦争を推し進めるが、それにプロテスタント諸侯が反発し、さらにデンマーク、スウェーデンが介入した。さらにハプスブルク家の強大化を怖れたフランスもカトリック国にもかかわらず介入した。1648年のウェストファリア条約では信仰の自由と諸侯の自由が認められ、事実上神聖ローマ帝国の実態は失われ、ハプスブルク家によるドイツ統一は不可能となった。 以降、ハプスブルク家はオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの「家領」の支配を強化し絶対君主制の基礎を固めて行った。1683年にはオスマン帝国による第二次ウィーン包囲に遭うが守り抜き、攻勢に転じ、1699年にカルロヴィッツ条約を結んだ。その結果、ハンガリー全域とクロアチアを獲得した。スペイン継承戦争ではブルボン家の王位継承を認めたが、南ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国を獲得した。
この頃に即位したカール6世には男子がいなかったため、家領不可分と長子相続を条件に定めた国事勅書をだし、娘のマリア・テレジアを後継者とした。しかし、マリア・テレジアが即位すると、諸侯は異議を唱え、プロイセン王国のフリードリヒ大王がシレジアに侵攻した。1740年にはオーストリア継承戦争が起こり、その結果、マリア・テレジアの継承は承認されたがシレジアは回復できなかった。
マリア・テレジアは皇女マリア・アントニアをフランス王太子(後にルイ16世と結婚する)と婚約させ、200年来の敵対関係を終結させ(外交革命)、対プロイセン包囲網を結成した。1656年からの七年戦争ではロシア帝国とともにプロイセンを窮地に追い込むものの、最終的な勝利には至らずシレジアの回復にも失敗した。その後、ポーランド分割に参加した。 晩年のマリア・テレジアは息子のヨーゼフ2世と共同統治を行い、彼女が没するとヨーゼフ2世が親政を開始した。
ヨーゼフ2世は啓蒙主義の影響を受けて、農奴制廃止などの近代化政策をとったが、広範な支持を得られず、失意のなかで没した。1789年にフランス革命が勃発するとピルニッツ宣言をプロイセン王とともに出し、ルイ16世が処刑されると革命に介入する。さらに第一次対仏大同盟にも参加した事でフランス革命戦争へと巻込まれていった。フランスでナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位するとアウステルリッツの戦いを戦い。その後バイエルンの離反、ライン同盟の結成などドイツ諸侯が帝国議会から脱退したためフランツ2世は1806年に神聖ローマ皇帝を退位。オーストリア帝国皇帝フランツ1世と称した。
[編集] オーストリア帝国 とオーストリア・ハンガリー帝国
詳細はオーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国を参照
[編集] ウィーン会議
オーストリア帝国が成立したのちの1809年クレメンス・フォン・メッテルニヒ(肖像)が外相に就任。オーストリアは皇女マリー・ルイーズをナポレオン1世にと政略結婚させるなど、現実的政策を進める。ナポレオンが1812年のロシア遠征に失敗し、ライプツィヒの戦いで敗北しエルバ島に流されると、メッテルニヒは1814年にウィーン会議を開き、ナポレオン戦争後の新秩序構築を主導した。会議では各国の利害が入り乱れ紛糾し、さらにはナポレオンの復活でワーテルローの戦いが勃発するなど混乱したが、主催者のメッテルニヒは、フランス外相タレーランの唱える正統主義を基調にフランス革命以前の体制に戻す「復古体制」を「新秩序」にすることで取りまとめた。結局、神聖ローマ帝国の復活はできずドイツ連邦が成立するにとどまったが、オーストリアは、南ネーデルラントをオランダ王国に譲る代わりにヴェネツィアを含む北イタリアとチロル、ダルマチアを獲得した。さらに「ウィーン体制」維持のために神聖同盟に参加した。
しかし、ドイツではドイツ統一運動が始まり、スペインではラテンアメリカの独立が進み1820年にはリエゴ革命、1830年にはフランスで7月革命がおきるなど「ウィーン体制」は早くも動揺をはじめた。また1834年にはドイツ関税同盟がプロイセンの主導で結成され、オーストリアの影響力は低下し始める。
1848年にフランスで2月革命が勃発すると、ウィーン、ブダペスト、ミラノなど帝国各地で暴動が発生し、メッテルニヒは英国に亡命。「ウィーン体制」は崩壊した。 この年にはフランクフルトでドイツ国民議会が開かれ、小ドイツ主義がドイツ統一の基調となる。一方でフランツ・ヨーゼフ1世が新皇帝に即位し欽定憲法を発布し、各地の革命運動を鎮圧し、大ドイツ主義を標榜する。
その後は、1859年のイタリア統一戦争に敗北し、さらにドイツ統一などをめぐりプロイセンとオーストリアは対立し、1866年、普墺戦争でのオーストリアが敗北した結果、プロイセン主導オーストリアを排除した「小ドイツ主義によるドイツ統一」が促進されることになり、オーストリアは孤立することになるのである。
[編集] オーストリア・ハンガリー二重帝国
詳細はオーストリア・ハンガリー二重帝国を参照
1867年3月15日、ハンガリー議会がオーストリアとの合体を定めた「アウスグライヒ(和協)法案」を可決。オーストリア・ハンガリー二重帝国体制の道筋がついた。 この体制ではフランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝とハンガリー王を兼任し、両国は外交、軍事、財政は共通にするものの、憲法と議会、政府は独自のものを置く同君連合体制である。 ハンガリー議会の「和協法」可決から3ケ月後の6月8日にはフランツ・ヨーゼフ帝がハンガリー王に戴冠し、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」を名実ともに成立した。 この体制によってドイツから疎外されたオーストリアは中央ヨーロッパの大国の地位を維持することに成功。帝都ウィーンには世紀末美術の花が咲くなど繁栄を得た。一方ハンガリーは首都ブダペストの近代化などに成功し、空前の繁栄を謳歌する。
しかし、この体制はドイツ系とマジャル人の多数派が少数のチェコ人やポーランド人など他のスラブ系諸民族を抑圧することで維持される性格を持つゆに、成立直後から民族主義を叫ぶ諸民族の揺さぶりを受けることになった。この結果、フランツ・ヨーゼフ1世は、ドイツ帝国とよりを戻し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の掲げた「パン=ゲルマン主義」に同調していく事となる。
[編集] サラエボ事件
詳細はサラエボ事件を参照
1908年にオスマン帝国で青年トルコ人革命がおきると、30年前から支配下においていたボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言した。これによってこの地域にあるセルビアとの団結を叫ぶ汎スラブ主義の芽を摘む対策にでた。汎スラブ主義を掲げるロシア帝国との合意も得、オスマン帝国には5,200万クローネの代償を支払うなど周到な、根回しをした合併であった。しかし、この地域の民族主義者たちの反発は買い、「民族防衛団」、「ボスニア青年党」などの結社を生み出すことになる。
ハプスブルク家ではこの頃皇太子ルドルフが急死し、フランツヨーゼフ帝の甥のフェルディナント大公が皇太子となっていた。 大公は帝国が民族主義の揺さぶりを受けていることにを危惧し、「二重帝国」を推し進めた「三重帝国」の再編も模索していた。
1914年6月28日、フェルディナント大公が夫人とともにボスニアのサラエボ訪問の際、ガブリロ・プリンチプによって射殺される事件が起こった(サラエボ事件)。
帝国政府は実行犯が「大セルビア主義」標榜するセルビア人青年だったことから、セルビアの関与を指摘。真相は藪の中のまま、帝国内での強硬派はセルビアとの戦争を主張。ドイツ帝国に支援を取り付けた上で7月23日にはセルビアに最後通牒を突きつけた。しかし、セルビアはロシアの強い後ろ盾を恃みこれを拒否したため7月25日には国交断絶。28日にはオーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告。人類史上初めての世界大戦がはじまることになった。
[編集] 第1次世界大戦
詳細は第一次世界大戦を参照
[編集] 戦間期
[編集] 敗戦とサン・ジェルマン条約
1918年10月、オーストリア臨時国民議会が発足し、暫定憲法が定められた。新政府の中心は社会民主党が担った。11月には共産党が成立したが、政府から弾圧され勢力を伸ばすことはなかった。かつての多民族国家オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した以上、ドイツ人地域のみでオーストリアが自立していくことには、否定的な考えが強かった。そのため、政府はドイツへの合併を望んでいた。
しかし、パリ講和会議では、ドイツの強大化を懸念するフランスなどによって、ドイツとオーストリアの合併は禁止された。1919年10月、政府はサン・ジェルマン条約を批准した。
[編集] 世界恐慌
1929年にアメリカ合衆国で起こった世界恐慌の波は、オーストリアにも押し寄せた。とりわけ、1931年にクレディート・アンシュタルト(オーストリア最大の銀行)が破綻したことは、オーストリアのみならず、ヨーロッパ経済全体に深刻な打撃を与え、オーストリアの右翼勢力を台頭させることになった。しかし、それは直ちにドイツのナチスとの連携を意味したわけではない。1932年に成立したエンゲルベルト・ドルフース政権は、社会民主党や共産党と対立する一方で、オーストリア・ナチスに対しても対立姿勢をとり、1933年にはドイツのナチス政権成立で勢いづく同党の活動を禁止させた。
[編集] 戦後
[編集] 年表
[編集] 古代からフランク王国
[編集] 神聖ローマ帝国時代
- 976年 - バーベンベルク家の辺境伯領が設置される。
- 1156年 - 神聖ローマ帝国に属する「オーストリア公国」となる。
- 1246年 - バーベンベルク家断絶。
- 1278年 - ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオーストリア公となる。以後1918年までハプスブルク家の領土となる。
- 1439年 - ハプスブルク家のフリードリヒ3世、神聖ローマ皇帝に推挙される。以後、帝位は事実上世襲となる。
- 1479年 - オロモウツの和約。1490年までハンガリーのフニャディ家の支配下に置かれる。
- 1529年 - オスマン帝国による第一次ウィーン包囲。
- 1618年 - 三十年戦争開始。
- 1648年 - ヴェストファーレン条約で三十年戦争終結。ドイツ諸侯は自立し、ハプスブルク家の権威弱体。
- 1683年 - オスマン帝国による第二次ウィーン包囲。
- 1699年 - カルロヴィッツ条約。オスマン帝国との戦争に勝利。
[編集] オーストリア帝国時代
- 1804年 - 神聖ローマ皇帝フランツ2世が「オーストリア皇帝フランツ1世」として即位する。
- 1806年 - 神聖ローマ帝国解体。オーストリア帝国へ。
- 1814年 - ウィーン会議を主催。
- 1866年 - 普墺戦争をプロイセンに対して行う。ハプスブルク家のオーストリアは敗北。
[編集] 二重帝国時代
- 1867年 - アウスグライヒにより、オーストリア帝国はオーストリア・ハンガリー帝国となる。
- 1888年 - ヴィクトール・アードラー(ユダヤ系)、オーストリア社会民主党創立
- 1896年 - テーオドール・ヘルツル「ユダヤ人国家 Der Judenstaat」
- 1897年-1910年 - カール・リューガー Karl Lueger ウィーン市長(反ユダヤ主義者)
- 1902年 - テーオドール・ヘルツル「古くて新しい国 Altneuland」
- 1905年-1918年 - ヴィクトール・アードラー、下院議員
- 1908年 - ボスニア・ヘルツェゴビナを併合。
- 1912年-1913年 - 第一次バルカン戦争でオスマン帝国を支援。
- 1914年 - サラエボ事件とそれに続くセルビアへの宣戦。第一次世界大戦の勃発。
- 1914年-1929年 - ハンス・ケルゼン・ウィーン大学教授(ウィーン学派の代表者。ユダヤ系)
[編集] 大戦間期;共和政時代
- 1918年 - オーストリア降伏。革命で共和制となり、600年以上続いたハプスブルク家の支配が崩壊。
- 1918年-1919年 - オットー・バウアー外相(オーストリア社会民主党、ユダヤ系)
- 1918年-1920年 - カール・レンナー首相(オーストリア社会民主党、ユダヤ系)
- 1920年代 - 政治経済の混乱を背景に民族主義的な準軍事組織「護国団」が台頭、敵対する社会民主党や護国団と支持層が重なるオーストリア・ナチスと抗争を頻発させる。
- 1933年-1938年 - ドルフス、シュシュニク両首相による独裁(オーストリア・ファシズム)。護国団は連立に加わる一方で、オーストリア・ナチスは弾圧された。
- 1934年 - ドイツとの合併を目論んだオーストリア・ナチスがドルフス首相を殺害。
- 1938年 - ナチス・ドイツによりドイツ第三帝国に併合される(アンシュルス)。