外交革命
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外交革命(がいこうかくめい、Umkehrung der Allianzen)とは、1750年代に起こったヨーロッパの同盟関係における重大な転換。具体的には、17世紀以来対立関係にあったハプスブルク家(オーストリア)とブルボン家(フランス)が、協力関係に転じたことを指す。
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[編集] 背景
[編集] ハプスブルク家
1740年から1748年にかけてのオーストリア継承戦争で、オーストリア=ハプスブルク家は、新興のプロイセンに敗北してシュレジエン地方を喪失した。この敗北による衝撃は、これまでイタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争などを通じて抗争を続けてきたフランスより、主要な敵はプロイセンであるという認識を、当時のオーストリア宰相カウニッツなどに抱かせることになった。このことが、オーストリア=ハプスブルク家がフランス=ブルボン家へ接近を図る要因となった。このことが後にドイツ諸侯の失望を招き、ハプスブルク離れの遠因となるのである。
[編集] ブルボン家
一方で、当初フランス=ブルボン家はオーストリア=ハプスブルク家との連携に積極的ではなかった。ブルボン家とハプスブルク家との連携に転じた理由は、以下のような国際関係の理解から求められる。
オーストリア継承戦争で、反ハプスブルク家のプロイセンをフランスは支援した。一方、新大陸・インドなどでフランスと対立していたイギリス(イギリス帝国)は、オーストリアを支援する姿勢を見せていた。従って、イギリスとプロイセンは対立関係にあった。こうした中、ドイツ・ハノーファー王国の出身であるイギリス国王ジョージ2世は、プロイセンがハノーファーに危害を与えることを懸念した。プロイセンの牽制を図ったイギリスは、1755年のサンクト・ペテルブルク協約で、プロイセンがハノーファーを攻撃した場合、ロシアがプロイセンを攻撃することを取り決めた。これを恐れたプロイセンはイギリスに接近し、ウェストミンスター協約でハノーファーを攻撃しないことを約した。
以上のような経緯から、フランスと対立関係にあるイギリスに接近していったプロイセンに対し、フランスは裏切られたという印象をえる。こうして、1756年5月にヴェルサイユ条約が成立し、ブルボン家(フランス)とハプスブルク家(オーストリア)の間に防御同盟が成立するにいたった。その帰結として、フランス王太子(後のルイ16世)とマリー・アントワネットとの婚姻に繋がった。
[編集] 歴史的意義
17世紀以来、ブルボン家(フランス)にとって最大の敵はハプスブルク家(オーストリア)と考えられていた。そのため、ドイツやイタリアの諸国、ポーランド、スウェーデン、オスマン帝国というオーストリアに隣接する国との間で同盟関係を結び、オーストリア=ハプスブルク家を牽制するのがフランス外交上の伝統であった。「外交革命」はこうした1世紀以上にわたり続いた国際関係の基本的枠組みに重大な変更をもたらした。こうして、「外交革命」後に起こった七年戦争では、両家が同盟関係のもとで戦った。
また、反ハプスブルク家のもとに周辺諸国が連携する体制がここで完全に崩壊した。フランスにとって、オーストリアを挟撃するためにもポーランドは重要な友好国であったが、七年戦争後にプロイセンの主導でポーランド分割が行われるなど、従来までの国際秩序の再編が一層進んでいくことになった。