オリエント急行
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オリエント急行(オリエントきゅうこう)は、ヨーロッパの長距離列車で、次の4つに分類する事ができる。
- 国際寝台車会社(日本での通称ワゴン・リ社)により1883年に運行がはじめられ、それを引き継いで1977年まで運行されたパリ-イスタンブール間の列車。
- 1980年代から運行が始められ、現在パリ-ウィーンを走行するヨーロッパの国際夜行列車。
- 国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車。オリエントエクスプレスホテルズ社が1982年に運行をはじめたロンドンとイタリアを結ぶ「ベニス・シンプロン・オリエント急行」(VSOE)と、スイスの旅行会社インターフルーク社による「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE)がある。また、フランスが主に団体専用列車用として所有する、「プルマン・オリエント急行」(POE)もある。1988年の来日にあたっては、当初国鉄と交渉していたのはVSOEであったが、紆余曲折のうえ実際に来日したのはNIOEである。この列車が団体列車として国内各地を凱旋走行することにより当時のJR各社が受けたインパクトは大きく、その後JR東日本は豪華寝台車「夢空間」を試作したほか、JR北海道は寝台列車「北斗星」の個室車両の増備や設備のグレードアップを実施、JR西日本は「トワイライトエクスプレス」を誕生させることとなった。
- アメリカと東南アジアの観光列車の名称。オリエントエクスプレスホテルズ社がバンコクとシンガポールの間で運行を行っている「イースタン・オリエント急行」(E&O)と、アメリカン・オリエントエクスプレス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」、メキシコを走行する「サウス・オリエント急行」、中国を走行する「チャイナ・オリエント急行」、インドを走行する「ロイヤル・オリエント急行」が存在する。
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[編集] 沿革
[編集] 国際寝台車会社のオリエント急行
1876年、ベルギーの銀行家ジョルジュ・ナヘルマッカーズは国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立ったといわれている。アメリカの大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争に打ち勝ち、ヨーロッパ大陸の寝台車市場において独占的な地位を築きあげていた。
この会社が1883年に、パリ-イスタンブール間に走らせた列車が「オリエント急行」である。当初のルートは、シュトラスブルグ(現ストラスブール)-ミュンヘン-ウィーン-ブタペスト-ブカレスト-ヴァルナ-コンスタンティノープル(現イスタンブール)で、ルーマニアとブルガリアの国境のドナウ川と、ヴァルナ-イスタンブール間は船で連絡した。運行便数は週1便であった。1885年には途中ウィーンまでは毎日運行となり、1889年には念願のイスタンブールまでの列車の直通運転が実現した。1919年には、イタリア止まりだったシンプロン急行を延長する形で、シンプロントンネルを経由し、ローザンヌ・ミラノ・ベネチア・ベオグラードを経由する「シンプロン・オリエント急行」が登場している。「オリエント急行」の全盛期は1930年代で、「オリエント急行」が週3便運行、「シンプロン・オリエント急行」が毎日運行、オリエントエクスプレスの補完列車として「アールベルク・オリエント急行」や「オステンデ・ウィーン・オリエント急行」が週3-4便運行されていた。これらはいずれも国際寝台車会社の寝台車のみで編成され、その設備は人々の注目を集めたが、戦火により運行休止を余儀なくされた。
第二次世界大戦後、これらの列車は座席車連結の夜行急行列車として徐々に復活する。しかし、かつての豪華さは失われ、また東西冷戦の影響もあり、規模の縮小や列車名の改変なども行われた。最期まで残った「ダイレクト・オリエント急行」(「シンプロン・オリエント急行」を1962年に改名した列車)が1977年に廃止された事で、本来の意味でのオリエント急行の歴史は幕を閉じる事となった。
[編集] 国際夜行列車のオリエント急行
現在、ヨーロッパの国際夜行特急(ユーロナイト)262・263列車として、パリ-ウィーン間を走行している「オリエント急行」は1980年代の中頃登場した列車である。ルートはパリ東駅-ストラスブール-カールスルーエ-ミュンヘン-ウィーン西駅で、かつてのオリエント急行と同じルートをたどる。元々はハンガリーのブタペストまで行く列車で、一時期はルーマニアのブカレストに足を伸ばしていた。2001年の7月のダイヤ改正でウィーン止まりとなり、スピードアップが行われたが、食堂車の連結は取りやめられた。2004年3月現在のパリ-ウィーン間直通の編成は次のようなものである。
- 寝台車1両-クシェット(簡易寝台車)2両-2等座席車 3両
その他に、パリ-ストラスブール間とザルツブルク-ウィーン間で1・2等の座席車の増結が行われている。
[編集] 国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車のオリエント急行
1976年、スイスのインターフルーク社は、かつての国際寝台車会社の寝台車を購入・復元し、観光用の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(NIOE)」の運行をはじめた。NIOEはチャーター運行を基本とし、ヨーロッパ各地を走行した。
1993年にインターフルーク社は経営難のためにNIOEを手放し、客車はあちこちの所有者のもとを転々とするほか、一部が廃車になったが、NIOE編成のチャーター運行は現在でも続けられている。
国際寝台車会社の寝台車を使った観光列車はもう1編成存在する。海運会社であるシーコンテナ社の社長のジェームズ・シャーウッドが1977年にオークションで購入、オリエント・エクスプレスホテルズ社という子会社を設立し1982年から運行をはじめた「ベニス・シンプロン・オリエント急行(VSOE)」である。VSOEはイギリスのロンドンとイタリアのベネチアの間を結んで運行され、イギリス国内は、かつてのプルマン社のイギリス子会社による豪華車両にちなんだブリティッシュ・プルマンと呼ばれる座席車、大陸側では1920年代に製造された国際寝台車会社の寝台車で運用されている。
またフランスでも「プルマン・オリエント急行(POE)」の名で、主にチャーターにより運行する列車が存在する。登場はNIOE・VSOEのそれとほぼ同時期である。
[編集] オリエント急行'88
1988年には、フジテレビ・JR東日本主導のもと、各国政府・鉄道各社の協力により、パリ→東京間でオリエント急行'88が運行された。列車にはNIOEの車両が使用され、フランスから西ドイツ(当時)、東ドイツ(当時)、ポーランド、ソ連(当時)、中国を経由し香港まで陸路を走行、香港から山口県下松港までは客扱いなしで航送(船で輸送)され、メインスポンサーでもあった日立製作所の笠戸工場で台車をJR線走行可能な狭軌のものに交換のうえ広島→東京間を走行した。なおこの列車の走行距離は実に15,494kmであり、最長距離列車としてギネスブックにも登録されている(正式な国際列車として認められたのはパリ→香港間のみ)。※1
なお列車運行に関する詳細は、下記の通りであった。
- 日本国内走行用に使用された狭軌の台車は、国鉄末期に大量に廃車されたスハ43系旧型客車の発生品を、バネ定数等を調整のうえ使用した※2。この結果、オリジナルの台車に装備されていた車軸発電機が使えなくなるため、荷物車にディーゼル発電機を搭載し、各車両へ給電することとした※1。
- NIOEに使用されているワゴン・リ客車の車体幅(2850mm程度)は日本の在来線規格(2950mm)より狭いため幅は問題ないが、全長が23.5m程度(在来線電車20m、気動車・客車は21.5m)とやや長いため、曲線通過時に車両限界に支障する恐れがあった。このため、走行区間を主要幹線のみに限定したうえで支障箇所の洗い出しが行われ、支障箇所800箇所のうち300箇所については軌道の移動が実施された※2。 (東北貨物線赤羽駅構内の軌道調整作業は、NHKの特集番組にも取り上げられた) また客車側は、ホームに支障するため全車両ドア下のステップを切除した。
- ワゴン・リ客車の連結器・緩衝器は欧州標準のねじ式・バッファー式でそのままでは日本の機関車と連結できないため、客車編成の前後に1両ずつ控車(マニ50 2236とオニ23 1)を連結した。マニ50形は余剰車の片側連結器を欧州タイプに改造のうえ倉庫として使用、一方オニ23形は一旦廃車となっていたナハネフ23 8を車籍復活のうえ連結器改造・映像放映設備(ハイビジョンテレビ)等の設置を行い「日立パビリオンカー」として使用した。
- ブレーキ関係については、通過国すべて圧力が同じであったため、ブレーキ管同士を接合するための部品を製造するだけで済んだ※2。
- 編成は、マニ50、寝台車6両(WLA Lx16×5両、WLA Lx20×1両)、バー・サロンカー(ARP)、プルマン・カー(WSP)、食堂車(WR)、荷物車(D)、スタッフ・カー(WLA YU)、オニ23(以上、連結順)の13連であった。
- 食堂車「プレジデンシャル」は1927年に製造され、1955年にフランス大統領用専用車に改造された車両で、シャルル・ド・ゴール大統領がエリザベス女王やケネディ大統領と会食を楽しんだことで知られているが、上記「国際寝台車会社のオリエント急行」に使用されたことはなかった。国内試運転時には、あまりの重さに台車のバネがすべて縮んでしまったため、客車製造当初は未搭載であったエアコンを撤去し重量の軽減を図った(運行が秋から冬であったため特に問題にはならなかった)。
- プルマン・カー「コートダジュール」は本来サロン・カーであり、上記「国際寝台車会社のオリエント急行」に使用されたことはなかったが、運行時は食堂車として使用された(現在は箱根のラリック美術館で展示公開・保存されている)。
- バー・サロンカー「トランブルー」は1929年にプルマン車として製造されたもので、1952年に改造されている。車内にはグランドピアノが設置され、専任ピアニスト「オットー・ハーンツェル」氏による生演奏を楽しむことができた。
- 荷物車については、屋根上のキューポラと監視窓が車両限界に支障するため、取り外したうえで日立製作所が現物を模して作成した若干小型のものを代わりに搭載した※3。また長距離運行への対応として、調理準備室の改造、6機の冷蔵庫・冷凍庫新設のほか、水タンクもより大容量のものへと交換された※1。
- 香港到着まで車内に備品として搭載していた観葉植物は、国内持込にあたり検疫の観点から農水省の許可が下りず、代用品を搭載した。
- 青函トンネルなど長大トンネル通過にあたっては、木製で石炭焚きボイラーを持つ客車は国内の防火基準を満たさないため原則として走行は不可能であった。しかし、欧州では長大トンネルとして有名なシンプロントンネルの通過が認められている実績に鑑み、全車両に放送装置と火災報知器を追設すること、係員を終夜置くこと、以上を条件に特例として認められ、同列車の北海道直通が実現した※1※2。
- ワゴン・リ客車はJR線での営業のため、日本滞在期間中のみJR東日本品川運転所に在籍し、車体妻面には所属区「東シナ」・定員・形式・自重・換算両数・検査施工表記が追記された。また国際列車運行に関与するため、JR東日本がUICに加盟しUICコード(42)を取得している(後にJR旅客全社が加盟)。
- 専任車掌の「ダニエル・グフェラー」氏はスイス国鉄からの出向者で、発車の合図にホルンを吹くのがトレードマークであった。身長は約2mで、趣味は鉄道模型※1。
- 大陸側の運行ルートを詳細に記すと、パリ・リヨン駅→ランス駅→ストラスブール駅→★→フランクフルト・中央駅→★→ベルリン・リヒテンベルク駅→★→ソハチェフ駅→ワルシャワ駅→★→ブレスト駅→ミンスク駅→モスクワ・ベロルシア駅→モスクワ・ヤロスラブリ駅→ノボシビルスク駅→イルクーツク駅→ウラン・ウデ駅→ザバイカルスク駅→★→満州里駅→ハルビン駅→北京駅→★→香港駅、である(★は国境)※1※3。
- 各国のSL動態保存機が牽引機関車に抜擢された。牽引した順に、230G 353型(フランス・パリ~モゥ間)、01-137型と01-1531-1型の重連(東ドイツ・マリエンボルン~ベルリン間)、Pt47型とTy51型の重連(ポーランド・クトノ~ワルシャワ~ブレスト間)、P36-0064型(ソ連・ブレスト~モスクワ間)、前進2991型(中国・安達~哈爾浜間)、D51 498型(日本・大宮~上野間)※3。
【参考】
※1 交友社「鉄道ファン 1989年1月号」
※2 鉄道ジャーナル社「鉄道ジャーナル 1989年1月号、2月号」
※3 フジテレビ出版「これがオリエント急行だ」
[編集] オリエント急行の名を冠したアジアとアメリカの観光列車
「ベニス・シンプロン・オリエント急行」で成功を収めたオリエント・エクスプレスホテルズ社は東アジアからの顧客誘致を積極的に進めるために、アジアのオリエント急行と題してマレーシア経由でタイのバンコクとシンガポールを結ぶ、「イースタン・オリエンタル急行」(E&O)の運行を1993年にはじめた。使用される車両はニュージーランド国鉄で使われていた日本製の車両を改装したものである。
他方中華人民共和国の鉄道では、シルクロード沿いで「チャイナ・オリエント急行」の運行が行われている。これは、カナダの旅行会社が中国国鉄の元貴賓車を観光用に貸し切り、北京とウルムチとの間で運行を行うツアーの名称で、1990年から行われている。
また、インドの鉄道では豪族マハーラージャの専用列車を復元した宮殿列車が1995年から「ロイヤル・オリエント急行」の名前で運行をしている。これは、デリーからアラビア海に面したマハーラージャまでの約1400kmを7泊8日かけて往復する観光列車で、途中あちこちで下車しての観光が組まれている。
オリエント急行の名前を冠した観光列車はアメリカにも存在する。これらは東洋には関係がないが、かつての鉄道黄金時代の車両を復元したという点でヨーロッパのオリエント急行と似ている。
アメリカのオリエント急行は2列車存在する。1つは、オレゴン・レイルホールディングス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」である。1950年前後に活躍したアメリカの流線型客車を改造し観光列車に仕立てたもので、ニューヨーク・セントラル鉄道の20世紀特急で活躍した流線型展望車やミルウォーキー鉄道で活躍したスーパードーム車など、アメリカの鉄道黄金時代の各鉄道の有名な客車が組み込まれている。北はカナダ、南はメキシコまで足を伸ばすが、走行するルートはほぼ決まっていて、季節に応じたツアーが設定されている。
アメリカには、「サウス・オリエント急行」という観光列車も存在する。これは「アメリカン・オリエント急行」ほどは知られていないが、やはりかつての流線型車両を復元し、メキシコ北部で運行を行っている列車である。
[編集] 年表
- 1883年10月4日 パリ発コンスタンチノープル(現イスタンブール)行き第一号「オリエント急行」列車の運行開始。
- 1889年 コンスタンチノープル(現イスタンブール)までの直通運転が実現する。
- 1919年 「シンプロン・オリエント急行」の登場。
- 第二次大戦中、運行中止。
- 1946年 座席車や簡易寝台車併結列車として、「シンプロン・オリエント急行」の運行が再開される。
- 1962年5月26日 「シンプロン・オリエント急行」運行休止、「ダイレクト・オリエント急行」として一般列車化。
- 1976年 スイスのインターフルーク社の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE)運行開始。
- 1977年5月 「ダイレクト・オリエント急行」運行中止。
- 1982年5月25日 オリエントエクスプレスホテルズ社の「ベニス・シンプロン・オリエント急行」(VSOE)、運行開始。
- 1988年 NIOE、フジテレビの開局30周年記念イベントで、日本のJR線を走る。
- 1993年夏 「イースタン・オリエント急行」(E&O)運行開始。
[編集] 補足
- オリエントを冠した列車としては、上記の一連の「オリエント急行」の他、アメリカの鉄道会社の一つであるグレートノーザン鉄道(現バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道)の「オリエンタル特急(Oriental Limited)」という列車を挙げることが出来る。この列車は1890年代から1930年代にかけて、シカゴとシアトル間で運行されていたが、シアトルでは日本郵船の太平洋航路に連絡していて、アメリカと東洋を結ぶ列車として機能していた。
- オリエント急行は1930年代の列車であり、スペースや室内設備の機能性などの面では、現在の新型列車の個室寝台に見劣りするところもある。これは復元車両でも同様であるが、調度品の質や人的なサービスが充実していたり、車内でのイベント出席の際のドレスコードが設けられているなど、演出としての豪華さに関しては他の観光列車と比べても際立っている。
- バブル絶頂期の1988年に来日したオリエント急行はたった一度限りの日本での車両公開やD51との競演など鉄道ファンにとっては夢のようなイベントを数多く記録したことで現在では伝説にすらなっている。
[編集] 関連項目
[編集] 小説・映画等
イスタンブール直通のオリエント急行は、上流貴顕の乗車が多く、東洋に連なる列車であることから、エキゾチシズムを伴った豪奢な乗り物というイメージが、世界的に広く敷衍していた。また国際的な紛争多発地域であるバルカン半島を経由ルートとしており、第二次世界大戦後の東西冷戦下にはイデオロギーの相違する多数の国々を貫通して運行された。
このようなオリエント急行の特徴は、古くから興味深い題材として作家たちの関心を集めることにもなり、しばしば小説の「走る舞台」に取り上げられた。グレアム・グリーンによる群像劇的な小説「イスタンブール特急」(1932)や、アガサ・クリスティの華やかな密室物推理小説「オリエント急行殺人事件」(1934)は著名な例である。特に後者は、1974年にシドニー・ルメットの監督で秀逸な映画化が為されている。
第二次世界大戦後には、イアン・フレミングがスパイ小説「007シリーズ」の一つとして「ロシアから愛をこめて」(1957)を書いている。この小説はのち1963年にショーン・コネリー主演で「007 ロシアより愛をこめて」として映画化されており、オリエント急行でのシーンも見せ場の一つとして魅力的に描かれている。
また、この列車を題材とした音楽としては、イギリスのフィリップ・スパークによるブラスバンド楽曲「オリエント急行(Orient Express)」(1986)がある。この曲はスパークの代表曲のひとつとされ、欧州放送連合(EBU)の"New Music for Band Competition"で第1位を獲得した。急行列車の出発から到着までを描写した、輝かしい曲相を特徴とする。日本国内においてもブラスバンドや吹奏楽のコンサートにて頻繁に演奏され、人気がある。
[編集] 漫画『月館の殺人』
原作・綾辻行人、作画・佐々木倫子による漫画『月館の殺人』(つきだてのさつじん)で、物語の舞台となる夜行列車「幻夜号」は、オリエント急行の車両や接客サービス等をかなり精密に模したものである。また精緻な作画に加え各方面からの監修も相まって、車内外の描写もほぼ正確である。なお、物語の詳細はこちらを参照のこと。