エリザヴェータ・フョードロヴナ
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エリザヴェータ・フョードロヴナ(Елизавета Фёдоровна, Elizaveta Fëdorovna, 1864年11月1日 - 1918年7月18日)はロシア皇族セルゲイ大公の妃。ドイツ名エリーザベト・アレクサンドラ(Elisabeth Alexandra Luise Alice)。ヘッセン大公ルートヴィヒ4世と妃アリスの次女。ハンガリー王女聖エリーザベトにちなんで命名された。愛称「エラ」(Ella)。妹はニコライ2世の皇后アレクサンドラ(アリックス)。姉ヴィクトリアはエディンバラ公フィリップの祖母に当たる。
[編集] 生涯
美人の誉れが高く、ヨーロッパで一番美しいプリンセスと称された。14歳頃、ボン大学に通っていた従兄ヴィルヘルム(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)から求婚されるが、彼女はこの求婚を受け入れることはなかった。1878年、母と妹をジフテリアで失い、祖母ヴィクトリア女王の元で育てられる。
1884年、幼馴染だったロシア皇族のセルゲイ大公(皇帝アレクサンドル2世の五男)と結婚した。この結婚は幸福ではなかったといわれている。実際、2人に子供はいなかった(これはセルゲイの同性愛によるものだという説が強い)。
1891年、夫はモスクワ総督に就任し、モスクワに移り住む。セルゲイはユダヤ人を迫害するなど反動的政治を行い、嫌われていたが、エラは美しさと人徳の高さから人気があった。この頃、ロシア正教に改宗する。後にアリックスがニコライとの結婚に際し、改宗のことで迷っていたとき、改宗をすすめている。
1901年、義弟パーヴェル大公の再婚に際し、ニコライ2世の命で大公の2人の子、マリヤ大公女とドミトリー大公を引き取り、養育した。マリヤは、この頃のエリーザベトはとびきりの美人でお洒落だが冷たく近寄りがたいひとだったと回想している。姪甥と親しくなるのは夫の死後である。
1905年、セルゲイ大公がカリャーエフに暗殺された。後に監獄のカリャーエフに面会し、直接助命嘆願を申し出たといわれているが、当人に拒否される。
1909年、マリヤとドミトリーの養育を終えると、他の皇族の反対を押し切って修道院を創立して修道院長となり、奉仕活動などに力を入れた。
1905年頃から妹アレクサンドラが皇太子アレクセイの血友病の治癒のためにラスプーチンにのめりこむと、エラは皇帝に手紙を送ったり、妹を諌めにツァールスコエ・セローに度々出かけていたが、彼女の思いは通じることはなかった。
1916年、ラスプーチンがユスポフ公(彼の母はエラの親友であった)らに殺害されると、ドミトリーに祝福の電報を送ったため、皇后はエラが殺害に加わっていたと嫌疑をかけることとなる。これにより、姉妹の仲はこじれることになった。
1917年、革命が起こると、周囲のものは亡命をすすめたが聞き入れず、翌1918年3月20日、赤軍によりアパラエスク郊外の鉱山に送られ、7月18日にほかの皇族らとともに殺害された。ある皇族の頭には包帯が巻かれていたが、エラが最後の力を振り絞って介抱した証であった。
遺体は後に、彼女が望んだようにイスラエルに埋葬されることになった。妹一家と同じくロシア正教では聖人とされている。
[編集] メモ
大仏次郎の短編小説「詩人」は彼女とセルゲイ大公暗殺犯カリャーエフともやり取りと題材にしたものである。