パーヴェル大公
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パーヴェル・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ大公(Павел Александрович Романов、Pavel Alexandrovich Romanov、1860年10月3日 - 1919年1月24日)は、ロシア帝国ロマノフ家の皇族。皇帝アレクサンドル2世と最初の皇后マリア・アレクサンドロヴナ(w:Maria Alexandrovna)の第8皇子。ロシア陸軍大将。軍人としてよりも、穏和で信仰心の深い紳士として知られていた。
1889年ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエワ(w:Alexandra Georgievna of Greece and Denmark)と結婚する。2人の間には、マリヤ・パヴロヴナ大公女(w:Grand Duchess Maria Pavlovna of Russia)と、ドミトリー・パヴロヴィチ大公の1男1女が生まれるが、アレクサンドラ大公妃はドミトリー大公を出産直後に死去した。
1893年、大公妃を失ったパーヴェル大公は、オリガ・カルノヴィッチ(後のオリガ・パーリー、w:Olga Valerianovna Paley)という身分の低い女性と親しくなり、2人は恋仲になった。大公は皇帝ニコライ2世に結婚の勅許を願い出たが、皇帝は貴賤結婚としてこれを認めなかったため、2人はパリに逃避行の末、1902年イタリアのリヴォルノの正教会で結婚した。1904年、バイエルン王国の計らいでオリガに対してホーエンフェルゼン伯爵夫人の称号を与えられたが、ロシアの宮廷では2人の結婚はスキャンダルなものとされた。パーヴェル大公は軍籍を剥奪され、全財産は処分された。マリヤ大公女とドミトリー大公の2人の子は、パーヴェルの兄でモスクワ総督のセルゲイ大公の手元に引き取られて養育されることになった。
パーヴェル・オリガ夫妻はフランスで生活し、2人の間にはウラジーミル、イリーナ、ナターリヤの3人の子供が生まれた。その後、夫妻はロマノフ家と和解し帰国する。ツァールスコエ・セローに一家は住み、1915年ニコライ2世からオリガと3人の子に対して改めてパーリー公の称号と殿下の敬称が与えられた。
第一次世界大戦中、近衛第一軍司令官として軍務に就いた。ニコライ2世が総司令官に就任後は、皇帝の総司令部に勤務した。1917年、ニコライ2世に対して新憲法の発布を主張するが、大公の意見は容れられなかった。パーヴェル大公は、ロマノフ家の皇族では皇后アレクサンドラと親しかった数少ない1人であった。大公は、ロシア革命によってロマノフ王朝が崩壊するまで皇后との親交を保った。
ボリシェビキによる権力掌握後、パーヴェル大公一家は厳しい試練に直面する。一家の財産は没収され、ボリシェヴィキの監視と嫌がらせの中で生活することを余儀なくされた。1918年3月、ウラジーミル公はウラルに移送され、1918年7月18日に処刑された。同年8月にパーヴェル大公も逮捕され、ペトログラードの刑務所に収監された。大公の健康はひどく損なわれ、次第に衰弱していった。オリガは、大公を救出すべくあらんかぎりの努力を尽くした。しかし、その願いも虚しく、1919年1月29日、パーヴェル大公はペトロパヴロフスク要塞に移され、翌30日にドミトリー・コンスタンチノヴィチ大公(w:Grand Duke Dmitri Konstantinovich of Russia)、ニコライ・ニコラエヴィチ大公、ゲオルギー・ミハイロヴィチ大公(w:Grand Duke George Mihailovich of Russia)の従兄弟らと共に銃殺された。
ボリシェヴィキによって大公の遺骸は、要塞内の集団墓地に埋葬された。ボリシェビキはオリガに対して葬儀を許さず、大公の遺体の行方は不明のままである。