エミー・フレージャー
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エミー・フレージャー(Amy Frazier, 1972年9月19日 - )は、アメリカ・ミズーリ州セントルイス出身の女子プロテニス選手。女子テニスツアーの選手の中でも、日本が大好きな選手としてよく知られる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。これまでにWTAツアーでシングルス8勝、ダブルス4勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス13位、ダブルス24位。長いキャリアを通して、日本人選手との対戦記録も多い。
フレージャーの選手生活は1986年から始まり、1987年の全米オープンで4大大会本戦に初出場している。1990年9月、この年に創設された東京・有明コロシアムの「ニチレイ・レディース」大会で初来日する。この時は準々決勝でモニカ・セレシュ、準決勝でカテリナ・マレーバを破って勝ち上がったが、決勝でメアリー・ジョー・フェルナンデスに敗れて準優勝に終わった。1991年に「ジャパン・オープン」にも初出場し、以来フレージャーは日本でプレーする常連の選手となった。同大会では1992年の準決勝で日本の伊達公子と初対戦し、1994年から1996年までの3年連続で、フレージャーと伊達が決勝対決をした。1995年の決勝戦ではフレージャーが優勝したが、後の3回は伊達が勝っている。(伊達とフレージャーは、ジャパン・オープンでの4回の対戦を除き、他のトーナメントでは全く対戦がない。)1997年は4年連続の決勝進出で杉山愛に敗れたが、1999年の決勝では杉山を破って4年ぶり2度目の優勝を果たす。2000年の決勝ではフランスのジュリー・アラール・デキュジスに敗れた。総計で、フレージャーはジャパン・オープン決勝に「2勝4敗」の戦績を残したことになる。
フレージャーが第1回大会から参加してきた「ニチレイ・レディース」では、1994年にもアランチャ・サンチェスに決勝で敗れた準優勝がある。この大会は1997年に「トヨタ・プリンセス・カップ」という名称に変更され、2002年を最後に終了した。最後の大会の時もフレージャーはプレーしており、セリーナ・ウィリアムズとの準決勝まで勝ち進んでいる。
4大大会では2度のベスト8進出があり、1992年全豪オープン、1995年全米オープンで準々決勝に勝ち進んだ。最近の4大大会での好成績は、2004年ウィンブルドンでの4回戦進出がある。フレージャーは31歳でも健在なプレーを披露したが、第13シードのマリア・シャラポワに 4-6, 5-7 で敗れた。
ジャパン・オープンで2度目の優勝を果たした1999年、8月第1週にアメリカ・サンディエゴで開かれた「アキュラ・クラシック」2回戦で、フレージャーはシュテフィ・グラフの最後の試合の相手になっている。この時グラフは足の故障から、フレージャーとの試合を 6-4, 5-7, 1-2 で途中棄権したが、翌週の8月13日に現役引退会見を開き、この大会には「(引退するという)自分の気持ちを確かめるためだけに参加した」と語った。エミー・フレージャーがこの歴史的な瞬間の目撃者となったのである。
ごく最近でも、フレージャーは2004年1月にオーストラリア・ホバート大会の決勝で日本の浅越しのぶを破った優勝がある。2005年11月にはカナダ・ケベック市の大会で優勝を飾り、33歳にして女子テニスツアーのシングルス「8勝目」を挙げた。
フレージャーは以前から、「テニスを引退したら、数学の教師になりたい」と話している。