イブン=ハルドゥーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イブン=ハルドゥーン (ابن خلدون, Ibn Khaldun 1332年5月27日 - 1406年3月19日)は中世のイスラム世界を代表的する歴史家・思想家・政治家。
[編集] 生涯
セビリャからチュニスに亡命した名門ハルドゥーン家の出身。チュニスのハフス朝を振り出しに、マリーン朝、ナスル朝、ベジャーヤのハフス朝地方政権といった、地中海世界のイスラム政権の宮廷を渡り歩いた。
最初のハフス朝では秘書官に任ぜられるもその地位に満足せず、マリーン朝においては陰謀に加担したとして投獄されるなど辛酸を舐める。三度目の仕官先であるナスル朝ではムハンマド5世の寵臣として立身し、カスティリャ王国への使節に任ぜられるなど重用されるが、それが高じて宰相のイブン=アルハティーブとの間に亀裂を生じ、退去を余儀なくされる。
四度目の仕官先である地方都市政権のベジャーヤでは旧知のハフス朝の王子の知遇を得、執権として重きをなすが、相次ぐ戦乱の中でペジャーヤ政権は壊滅し、戦死したスルタンに代わって敵のザイヤーン朝の軍勢に街を明け渡す。このようにイブン=ハルドゥーンの政治家人生は流転の連続であり、それが後に学者としての彼の思想体系に大きな影響を及ぼしたとされる。
ペジャーヤを去った後は政治の表舞台から身を引き、学究の道に邁進する。西アジアイスラム史の体系化を試み、歴史書『イバルの書』を著して(後に冒頭の序論と第1部である「歴史序説」が独立した書物として広く読まれた)、学界において確固たる地位を築く。カイロに移住して活発な講演活動を展開し、マムルーク朝のスルタン・バルクークの信任を得て、多くの学院の教授職を歴任し、マーリク派の大法官に任ぜられた。
この後クーデターに関与したとされて政治的には失脚するが、学者としての名声は衰えることがなかった。ティムールのシリア遠征によるダマスクス包囲に巻き込まれるが、その名声を聞きつけたティムールによって陣中に招かれ、大いに弁舌を振るって周囲を圧倒した。
再びエジプトに帰還した後には何度か大法官を務め、六度目の就任の直後に病を得て歿した。
[編集] 参考文献