ナスル朝
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ナスル朝(アラビア語:بنو نصر Banū Naṣr)は、イベリア半島最南部に13世紀から15世紀末まで存在していたイスラーム王朝。1492年、この王朝がスペイン王国に征服されたことで、キリスト教勢力によるレコンキスタ(再征服運動)が完了した。グラナダ王国(Kingdom of Granada)、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。
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[編集] 歴史
[編集] 建国
1237年、ムハンマド1世が都を正式にグラナダに定めた。当時、カスティーリャ王国に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタ(再征服運動)を展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラーム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた。そのため、ナスル朝グラナダ王国はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった。しかし、このナスル朝グラナダ王国も、カスティーリャ王国に定期的な貢納を強いられたほか、時には同王国の身分制議会(コルテス)のメンバーに参加するなど、王国としての独立的地位は建国当初より厳しいものであった。13世紀後半になると、カスティーリャ王国の要求はさらに激化し、ジブラルタルなどの割譲を要求されるようになった。そのため、イベリア半島対岸のモロッコにあるイスラーム王朝であるマリーン朝に接近し、外交政策を通じてカスティーリャ王国に対抗することを図った。しかし、モロッコのマリーン朝との関係も必ずとも良好なわけではなく、カスティーリャ王国とマリーン朝の勢力均衡を図りつつ巧みな外交を展開する必要があった。
[編集] 最盛期
14世紀半ば、マリーン朝がカスティーリャ王国に戦闘で敗れ、両国間の勢力均衡が崩れた。このことは、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態であった。しかし、この時期(14世紀半ば)よりヨーロッパ全域をペスト(黒死病)が襲ったことでカスティーリャ王国も大打撃を被ったこと、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国とアラゴン王国の対立、さらにカスティーリャ王国の内紛などが重なり、レコンキスタのさらなる進展に足止めがかかった。こうした状況下で、ナスル朝グラナダ王国はその命脈を保つとともに、徐々に国力を発展させていった。イタリアのジェノヴァ商人などとの交易活動も、経済的繁栄の一因となった。
14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、ナスル朝グラナダ王国はその最盛期を迎えた。一時は喪失していたジブラルタル、アルヘシラスを奪回する一方で、地中海外交を積極的に展開し、エジプトのマムルーク朝と外交関係を樹立した。文化面においても、既に13世紀より造営されていたアルハンブラ宮殿に大規模な改修が行われ、首都グラナダの繁栄に彩りを与えた。
[編集] 衰退から滅亡
しかし、15世紀に入ると再びナスル朝グラナダ王国は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。また、15世紀前半、ポルトガル王国のエンリケ航海王子がアフリカ西岸の航海を支援して影響力を行使するようになったことは、これらの地域でも貿易に従事していたナスル朝の経済にとって打撃となった。また、政情不安にともなってジェノヴァ商人の足もナスル朝から遠のき、経済的にも孤立を深めることになった。さらに、ナスル朝内部の政治闘争が続いたことで一貫した対内、対外政策がとれず、場当たり的なカスティーリャ王国との戦闘は、同王国のレコンキスタの機運を強めさせるだけで、ナスル朝を利することはなかった。
1492年1月、既にカスティーリャ王国とアラゴン王国の合併(イザベラ1世とフェルナンド2世の結婚、カソリック統治)で成立していたスペイン王国は、グラナダを無血開城させてレコンキスタを完了させた。最後のナスル朝君主であったムハンマド12世はフェズへと亡命し、ナスル朝は滅亡した。レコンキスタの熱狂は、宗教的に寛容な姿勢を許さなかった。同年中にユダヤ教徒に対して改宗か国外退去が命じられ、1502年にはカスティーリャ王国(この段階でのスペイン王国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指している)でイスラーム教徒にも改宗を迫る法令が出され、のちにスペイン全域にまで拡大することになった。
[編集] 歴代君主一覧
- ムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)
- ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)
- ムハンマド3世(Muhammed III、1302-1309)
- ナスル(Nasr、1309-1314)
- イスマーイール1世(Ismail I、1314-1325)
- ムハンマド4世(Muhammed IV、1325-1333)
- ユースフ1世(Yusuf I、1333-1354)
- ムハンマド5世(Muhammed V、1354-1391)
- イスマーイール2世(Ismail II、1359-1360)
- ムハンマド6世(Muhammed VI、1360-1362)
- ユースフ2世(Yusuf II、1391-1392)
- ムハンマド7世(Muhammed VII、1392-1408)
- ユースフ3世(Yusuf III、1408-1417)
- ムハンマド8世(Muhammed VIII、1417-1419, 1427-1429)
- ムハンマド9世(Muhammed IX、1419-1427, 1430-1431, 1432-1445, 1448-1453)
- ユースフ4世(Yusuf IV、1431-1432)
- ユースフ5世(Yusuf V、1445-1446, 1462)
- ムハンマド10世(Muhammed X、1446-1448)
- ムハンマド11世(Muhammed XI、1453-1454)
- サード(Said、1454-1464)
- アブルハサン・アリー(Abu l-Hasan Ali、1464-1482, 1483-1485)
- ムハンマド12世(Abu 'abd Allah Muhammad XII, known as Boabdil、1482-1492)