アンブロジオ・スピノラ
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アンブロジオ・スピノラ(Ambrosio Spinola、1569年 - 1630年9月25日)は初代ロス・バルバセス侯爵で、17世紀前半のスペインを代表する名将。ヨーロッパ中にその名を轟かせた攻城戦の名人であり、1628年にフランス宮廷に立ち寄った際には宮廷挙げての歓迎を受けた他、軍事史上名高いオランダの名将オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッサウ(マウリッツ)も、敵ながらその能力を高く評価していたとされる。
[編集] 生涯
ジェノヴァの名家の長男として生まれる。スピノラ家はセスト及びベネフロ侯爵家であり、銀行業を営んでいた。しかしジェノヴァ国内での政争に敗れたアンブロジオは、当時ジェノヴァの宗主国であったスペインの将帥として立つことを選ぶ。1602年、アンブロジオは弟のフェデリコとともにスペイン王国と傭兵契約を結び、フランドルへ向かう。
当初スペインはアンブロジオの部隊をイングランド侵攻に使う予定であったが、この計画が白紙となった為、アンブロジオは八十年戦争に投入されることになる。アンブロジオは1603年よりオステンド攻城戦を引き継ぎ、1604年にこれを陥落させたのを皮切りに、1609年の停戦協定に至るまでフランドル各地を転戦し、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)軍を率いるマウリッツ・ファン・ナッサウと互角の攻防を展開する。しかし戦費の支払いを渋るスペイン王室によってスピノラ家の財政は極端に悪化し、1611年にはついにアンブロジオは破産を経験する。この年、アンブロジオはスペインの大貴族(グランデ)に列せられる。
1618年に三十年戦争が始まると、アンブロジオはスペイン軍を率いてファルツ選帝候領に侵入し、華々しい戦果を上げる。1621年にオランダとの休戦協定が切れると、アンブロジオは再びフランドルに転戦し、1625年には名高いブレダ攻城戦を指揮している。また1621年に彼はロス・バルバセス侯爵位と「大貴族(グランデ)」の特権を手に入れている
しかしこの頃、新たにフェリペ4世の寵臣として寵臣政治を展開していたオリバーレス伯爵(公伯爵)はフランドル政策においてスピノラとの意見を対立させ、スピノラに非協力的であった。この政争は1625年に死亡したマウリッツの跡を継いでオランダ軍を指揮したフレデリック・ヘンドリックに有利に働き、戦況は悪化していった。
1628年1月、オリバーレス公伯爵はスピノラをフランドル駐留スペイン軍の総司令官の任務から外し、マドリッドに呼び寄せた(スピノラはマドリッドに向かう途中、ラ・ロシェル攻城戦を行っていたルイ13世やリシュリュー枢機卿と会談し、ラ・ロシェル攻撃に関するアドバイスを行っている)。やがてマドリッドの宮廷に合流したスピノラはその人間性でスペイン宮廷を魅了してしまうが、これが生来気難しい性格で孤立しがちであったオリバーレス公伯爵の孤立感をさらに深めたとも言われる。
折しもこの時、スペインはイタリアのマントヴァ公領継承に関わる紛争でモンフェラート侯爵領のカザーレへの侵攻を企図していた。1629年、アンブロジオはマントヴァ公国継承戦争を指揮する為にイタリアに派遣される。しかし、オリバーレス公伯爵の非協力的な態度は続き、アンブロジオは全ての財産を失って失意のうちに病死した。結局、スピノラ家にスペイン王室から戦費が支払われることは無かった。
[編集] ベラスケスとアンブロジオ
1634年から1635年にかけてディエゴ・ベラスケスが描いた名画「ブレダの開城」において、中央で敗将のユスティヌス・ファン・ナッサウを労っているのは、アンブロジオである。アンブロジオはその生涯と財産の全てをスペイン王室に搾取された存在であったが、この不朽の名画にその姿が描かれたことは、率いたスペイン人将兵からの崇拝とともに彼がスペインから得たわずかな栄光の一部となった。