アロウズ
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参戦年度 | 1978 - 2002 |
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出走回数 | 301 (アロウズ) 81 (フットワーク) |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 142 (アロウズ) 25 (フットワーク) |
表彰台(3位以内)回数 | 8 (アロウズ) 1 (フットワーク) |
ポールポジション | 1 (アロウズ) 0 (フットワーク) |
ファステストラップ | 1 (アロウズ) 0 (フットワーク) |
F1デビュー戦 | 1978年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 2002年ドイツGP |
アロウズ(Arrows)はかつてF1に出走していたチームおよびコンストラクターである。チーム名の由来は、チーム設立にかかわった、フランコ・アンブロジオ(A)、アラン・リース(R)、ジャッキー・オリバー(O)、デイブ・ウォス(W)、トニー・サウスゲイト(S)の頭文字をとったものである。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] チーム設立
1977年の末に、シャドウチームからリース・オリバー・ウォス・サウスゲイトが独立する形でチームが設立された。ドライバーは新鋭のリカルド・パトレーゼをシャドウから引き抜いた。また、デビューイヤーを戦うマシンとして「FA1」を製作したが、これはシャドウの「DN9」と酷似していたことから、コピーではないかとのクレームが出された。結局、アロウズはこの訴訟に敗北し、1978年シーズンの終盤に再設計した「A1」をデビューさせることとなる。
[編集] 躍進
1978年のスウェーデンGPや1980年のアメリカ西GPで2位入賞、1981年のアメリカ西GPではポールポジションを獲得するなど、パトレーゼが時折印象に残る成績を残すこともあったが、コンストラクターズランキングでは中位から下位といったポジションがほとんどであった。
アロウズがコンストラクターズランキングで最も上位になったのは、メガトロンエンジン(BMWの市販バージョン)を搭載した1988年であった。この年はデレック・ワーウィックがコンスタントにポイントを獲得し、エディ・チーバーもイタリアGPで3位表彰台を獲得した。最終的な順位は4位であったが、実はシーズン最終戦を終えた時点では6位となっていた。しかし、ベルギーGPでベネトンの燃料規定違反による失格裁定が確定すると、このレースで7,8位フィニッシュしていたアロウズが繰上げで5,6位となり、この3ポイントがきいて、同点で並んでいたウィリアムズや2点先行していたマーチをかわし、ロータスと並ぶコンストラクターズ4位に躍進することとなった(当時は現在と異なり、ポイント圏外の成績までを考慮した順位ではなかった)。
ターボエンジンが禁止された翌1989年は、コスワースの市販エンジンを搭載し勢いは落ちたものの、マシンバランスはよく、ワーウィックがところどころで光る走りを見せた。
[編集] フットワーク時代
1990年に日本のフットワークがスポンサーにつくことになったが、翌年の1991年からは、チーム・コンストラクターとしても「フットワーク」を名乗ることになる。(コンストラクターとしては正式には1992年から)
1991年には、かつてマクラーレンと組んでチャンピオンを獲得していたポルシェのエンジンを使用することとなるが、このエンジンはかつてのV6エンジンを単純に2つつなげた様な代物で、大きくて重い「時代遅れ」と呼ぶべきもので、全く成績がふるわなかった。業を煮やしたチームは、シーズン途中で前年まで使用していたフォードを引っ張り出してくるというドタバタぶりであった。
この反省から1992年には無限のエンジンを使用。これに伴い、鈴木亜久里がチームに加わる。エースドライバーのミケーレ・アルボレートがリタイアわずか2回という堅実な走りでチームを引っ張った。7位が6回とすんでのところでポイント獲得を逃すことが多かったのが惜しまれた。対照的に、鈴木はエンジンなどにトラブルを多く抱えたため好成績を収めることが出来なかった。
1993年にはシーズン途中でマクラーレンからアクティブ・サスなどのハイテク装置を購入すると、それまでと比べ予選順位が両ドライバーとも10ポジション程度アップするなどして弱点であった部分が消えて戦闘力を増したが、レースではトラブルが続出してなかなか結果に結びつかなかった。そしてこの年の末に、日本の不景気の影響を受けて、フットワークがスポンサーをおりることになり、ジャッキー・オリバーがチームオーナーに復帰する。しかしコンストラクターズとしてのチーム名は1996年までフットワークと名乗り続けることになる。1995年には日本人の井上隆智穂を起用したことで知られる。
[編集] TWR時代
1996年の序盤に、ベネトンやリジェを率いていたトム・ウォーキンショーがチーム買収に成功。チーム運営もスポーツカーレースで数々の好成績を収めていた「トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)」が行うこととなった。
1997年には、前年にウィリアムズでチャンピオンを獲得しながらも再契約がかなわなかったデイモン・ヒルを獲得することにより、カーナンバー"1"を纏うことになった。エンジンはヤマハ、タイヤはブリヂストンと奇しくも日本関連の陣容となった。開幕当初はヒルをもってしても苦戦が続いていたが、ハンガリーGPで快走を見せ、ファイナルラップ途中でマシントラブルによりジャック・ヴィルヌーヴに抜かれるまではトップを独走していた。(最終的には2位でフィニッシュ)
しかし、その後チームの成績はふるわず、徐々にウォーキンショーの情熱も冷め、資金的にも立ち行かなくなり始めた。2001年にはプジョー改めアジアテックエンジンの無償供給を受けるものの成績は低迷、ついに翌2002年のモナコGPで撤退の話が出た。当時ウォーキンショー代表は明確に撤退を否定したが、イギリスGPで再度撤退するのではないかとのまことしやかな噂が流れる。果たして、次戦のフランスGPでは両ドライバー共に予選アタックを全開で行うことなく「予定通り」に予選不通過となる。結局、ドイツGPを最後に一時休止の決断をするが、そのまま復活を果たすことなく、足掛け25シーズンにわたるアロウズのF1参戦は終止符を打つこととなった。この撤退が原因でチーム代表であったウォーキンショーの社会的信頼も失墜してしまい、TWRも倒産してしまった。
[編集] その後
TWRの倒産後、アロウズの工場はアメリカのメナード・エンジニアリングが購入して運営を行っていたが、2006年よりF1に新規参入するスーパーアグリF1チームがF1活動の拠点としてメナードから同工場をリースした。他にもスーパーアグリは、最初のマシンとなる「SA05」に2002年にアロウズが投入した「A23」のモノコックを利用しているほか、スタッフも旧アロウズに所属していた人間が多数を占めるなど、アロウズと密接な関係を持っている。
[編集] 主な参戦ドライバー
- リカルド・パトレーゼ (1978 - 1981)
- ティエリー・ブーツェン (1983 - 1986)
- ゲルハルト・ベルガー (1985)
- デレック・ワーウィック (1987 - 1989 , 1993)
- ミケーレ・アルボレート (1990 - 1992)
- 鈴木亜久里 (1992 - 1993)
- 井上隆智穂 (1995)
- デイモン・ヒル (1997)
- 高木虎之介 (1999)
- ハインツ=ハラルト・フレンツェン (2002)