アルフレート・ローゼンベルク
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アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg、1893年1月12日 - 1946年10月16日)は、ナチス・ドイツの政治家。バルト・ドイツ人。
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[編集] 生涯
ロシア帝国領であったエストニアのレヴァル(現タリン)に、ドイツ人の靴職人の子として生まれた。モスクワで建築家になるための勉強をしていたが、ロシア革命を避けてドイツに亡命した。1918年にナチスに入党。トゥーレ協会の早くからの結社員であり、ディートリヒ・エッカートの友人としてヒトラーの側近になっていた。一方、彼が建築家としての修業をしていたという経歴が、ヒトラーに感銘を与えていたらしい。1921年、ナチスの機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』(Völkischer Beobachter、「民族の観察者」の意)の編集責任者となる。1923年11月8日に実行されたミュンヘン一揆を最初に計画し、その翌日の失敗に至るまでヒトラーと行動をともにしている。ヒトラーが刑務所に入っていたときには政治運動の采配を一時任され、党の代理総裁であった。1924年にドイツ民族自由党と選挙での協力関係を結ぶことに同意し、5月の国会選挙では意外にも200万近い票を集めた。ところが、決断力がなくインテリ型のローゼンベルクは、党員のいがみ合いを制止することができず、民族自由党との合同を維持することもできずに国会でのナチスの議席を減らし、ヒトラーのはっきりした支持も得られなかったために代理総裁を途中で投げ出している。
1933年からナチスの外交部門を担当し、1934年からはナチス理論の宣伝者として活動をはじめる。彼の組織の任務は、東ヨーロッパとバルカン諸国のファシスト集団との連絡を維持することであり、ナチスの「外務省」としてリッベントロップと権威を争う。
1939年にはレーダー提督とノルウェー国粋党との仲介をしている。1940年、フランクフルトにユダヤ人問題研究所を設立。1941年の独ソ戦の際には、ヒトラーに命じられて新しい占領地域に3つの保護領を作る計画を立案し、東ヨーロッパ占領地区国家委員(東部占領地域省)に任命された。しかし東方におけるヒムラーやゲーリングの権限主張のために名ばかりの任命となり、この2人との争いは敗戦の時まで解決しなかった。1941年7月16日に行われた総統本営での会議では、占領したウクライナの住民に対して友好的な政策を採用してもらいたいと訴えるが、ヒトラーに一蹴される。第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判により戦争犯罪者として絞首刑に処せられた。
[編集] 人柄と思想
ローゼンベルクはヒトラーに忠実に仕え、様々な地位を与えられたがどれ1つとして首尾よくこなせなかった。ヒトラーは、彼を人種論の担当者、そして文化宣伝の責任者にしたが、後に彼を疎んじるようになる。ヒトラーの他の部下たちよりは人物が高尚で、権力闘争はおろか、自分の政策を実行するためにさえ策略を弄することができなかった。ボルマンやコッホなどの知的水準が高くない連中に妨害され、重要な事柄が自分の権限を無視されて実現されることに、ローゼンベルクは絶えず抗議しなければならなかった。権力機構から見られるローゼンベルクの権力の大きさと、その発言の効果のなさは奇妙な印象を与える。これはローゼンベルクがナチスの同志の間で、押しの強さを発揮できなかったことに帰することができよう。
初期の彼の民族論・文化論は、著書『二十世紀の神話』(Der Mythus des 20.Jahrhunderts, 1930年)にまとめられている。とはいえ、その思想が偏狭で融通に欠けていることからヒトラーの側近には侮られ、後にはゲッベルスにさえ「イデオロギーのげっぷ」と軽蔑されていた。人種の多元性を認め、未来の帝国からユダヤ人だけしか排除しなかった。ゲルマン民族以外は人類から排除するという徹底性がなかったために、ヒムラーやボルマンのような連中よりヒトラーへの影響が及ばなかった。リガ工科大学在学中より古代インド文明や神秘主義哲学に傾倒し、ラスプーチンやグルジェフの影響を強く受けたロシア神秘主義サークルで修行を積んできたオカルティストでもあった。
しかし、近年では定型的な批判とは別に、ゴシック様式の評価などの内容をはじめ、意外と思想的内容はまともであるとする見方も思想史的に登場しつつある。
[編集] ローゼンベルクと東方政策
ポーランド・ウクライナ・バルト海沿岸へとドイツの生活圏を拡げるべきだというヒトラーの東方政策について、ローゼンベルクの影響が指摘される。大ロシア人とユダヤ人についてはヒトラーと一致した見解を持っていたが、ロシア人をソ連の他の民族と区別していた、ただ1人のナチス指導者だった。
ローゼンベルクはモスクワ大公国を「ロシア-モンゴルの後進性」の中心と見なしていた。モスクワ大公国は帝政時代にもソヴィエト政権下においても民族的に異なるウクライナ人・エストニア人・グルジア人・タタール人を抑圧し、ロシア化を強制した、という。ドイツがボリシェヴィキの圧政からの解放者として登場すれば、ソ連国内にいる大ロシア人以外の何百万という住民の支持が得られ、ロシア人国家を解体できると信じていた。ウクライナ人国家を建設し、バルト連邦・カフカース連邦をつくることで大ロシア人の侵略を阻止できる、という彼の主張は、ゲーリングの〈ドイツ人の入植、直接支配〉という方針転換に斥けられた。
1943年には連合国との和平案として〈私有財産と信教の自由、ソ連の少数民族の自治権回復を約束する〉という方針を推薦したが、これもヒトラーに容れられなかった。その年の5月にヒトラーに支持されて、農業条例を発表した。これはソ連農民の協力を得て生産力を高め食料をより多く獲得する目的のために、農民が耕作した土地の永久所有を認めることを謳ったものであった。しかし、その秋には軍事情勢が悪化し、ローゼンベルクの宣言は完全な失敗に終わった。彼の政治上の「理想」は、ヒトラーの真意を隠すために利用される運命にあったのである。
[編集] 反ユダヤ主義と強奪
ゲーリングに次ぐ「東部占領地域大臣」として、また党の「外務部長」としてのローゼンベルクは、当然ポーランドやロシア・バルカン諸国・バルト諸国でのユダヤ人の扱いを知悉し、責任を分担すべき地位にあった。しかしローゼンベルクの官庁は占領された民政地域の経済事項を規制する権限しか与えられておらず、軍政を掌握するゲーリングの組織と競合する立場にあった。ユダヤ人労働者の強制労働、食糧供給(飢餓化)、財産の没収についてローゼンベルクは介入できなかったし、するつもりもなかったのだ。東部省が支配する地方へのユダヤ人の移動について1941年10月に2度ほど(フランス軍司令部、総督府)相談されたことがあるが、いずれも結論は出ていない。
1942年6月のユダヤ人への住居退去指令によって、税務署員が押収した中でも「著作とそのほかのユダヤ的源泉の文化・芸術作品」がローゼンベルク特捜隊に渡され、おそらくフランクフルトのユダヤ人問題研究所に送られた。この特捜隊はオランダやフランス、ベルギーなどに権限を拡大し、ラビの神学校・スピノザ協会などから個人の蔵書を押収し、その中にはローゼンタール文庫のような貴重な史料も含まれていた。1943年3月に東部省はユダヤ人の「家具」の処分を単独で行うことを宣言し、その売り上げは東部省の予算に入れるべきだと主張している。1944年5月の段階でローゼンベルクの東部省は「ユダヤ人問題が親衛隊の管轄であることを認める、ただし収容所における賃金差益は帝国弁務官の財務局に支払われるべきだ」と主張する書簡を送っている。
ユダヤ人問題の「最終解決」・ホロコーストについて、ローゼンベルクがどの程度責任を感じていたかということはわからない。ただ自分の権限の及ぶかぎり、ユダヤ人の財産没収からローゼンベルクが利益を得ようとしたことは明らかである。それが学術への寄与をねらったものか行政上の必要によるものかはともかく、ユダヤ人にとっては破滅であることに変わりはなかったのである。