つげ義春
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つげ 義春(つげ よしはる、男性、1937年10月31日 - )は、漫画家、随筆家。本名 柘植義春。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。
目次 |
[編集] 人物
東京葛飾生まれ。父は板前。伊豆大島や千葉県大原などを転々とした後、葛飾区立石に育つ。5歳で父を亡くし、貧しい母子家庭で苦労して育った。戦時中は空襲を避けて新潟県赤倉温泉に学童疎開。
葛飾区立本田小学校を卒業してメッキ工になったが、母の再婚相手と折合いが悪く、鬱屈した心情から密航を企てて、1952年に横浜港からニューヨーク行きの汽船に潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の海上保安部に連行された。
幼少時からの対人恐怖症が昂じたため、独りでできる仕事として漫画家を志し、1955年に若木書房からプロデビュー。当初は「生活の為」貸本漫画誌に数多く執筆していた。しかし作品はなかなか売れず、錦糸町の下宿の支払いを2年分も溜めたため、便所を改造した一畳の部屋に幽閉され、8年間にわたり悶々の日々を送ることとなった。血液銀行に通って売血したのもこの時期のことである。1962年には、自殺未遂を起こして病院に担ぎ込まれたこともある。
ほんの一時期であるが、知人の紹介でトキワ荘にも出入りしていた事もあった。寺田ヒロオや赤塚不二夫とは気が合ったが、その他のメンバーとは馴染めなかったという。そして、僅か2週間程で赤塚に別れを告げ、トキワ荘を去った。
1965年「噂の武士」で『ガロ』8月号に登場。続いて「李さん一家」など力作を発表。このころ白土三平の赤目プロに出入りし、白土のアシスタントから井伏鱒二らの作品を教えられ、大きな影響を受ける。やがて水木しげるのアシスタントに採用され、美女の顔を描くのが苦手な水木に代わって水木作品のペン入れを手伝うようになった。
1987年 自らの自殺未遂を描いた『別離』を発表。以来、執筆活動を休止している
漫画家つげ忠男は実弟。妻藤原マキ(故人)は、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。
[編集] 作風
自らの生活観・人生観などと併せて独特の世界観を漫画史に切り拓いた。画風は現代の漫画において普通に用いられているトーンを使わないため、カラー作品においてもモノクロ感が強く非常に暗く見える。さらにストーリーのテーマを日常や夢に置き、必ずしも結末がハッピーエンディングでないことから、救いようのない厭世的で虚無感または虚脱感を訴えた作風の漫画を得意とする。このことが日本の映像・演劇などの芸術家と通じるのか、作品の映画化も何度もされている。『ガロ』を通じて全共闘世代の大学生の読者を獲得。1970年代前半にはつげブームを招来した。
後の作家に大きな影響を残していて、特にパロディの分野ではつげ義春作品を題材とするのが基礎となっているきらいがある。現在でも往々につげ作品のパロディ漫画を見ることが出来る。
[編集] 作品史
[編集] 貸本漫画時代(1955~65)
現在つげ義春全集(筑摩書房)に収録されている最も古い作品である短編集『生きていた幽霊』(56)は、(この当時の漫画全般にも言えることだが)手塚治虫の影響を強く受けている。キャラクターは手塚のロックのようでもあり、サファイアのようでもある。また、団子っ鼻のキャラクター「つげ義春」が必ず顔出しするのも手塚の影響であろう。
一方、この短編集の一篇『罪と罰』のヒロインのファッションは手塚マンガ以上に洗練された都会風のものであり、つげ義春の少女漫画家としての片鱗をも垣間見せる。しかし、作者本人はだんだん手塚的なものに嫌気が差していったようで、トリック推理ものである『罪と罰』を契機として江戸川乱歩的なデカダンス推理ドラマの世界へと足を踏み入れていく。翌年には湯治客たちが真実とも虚構ともつかぬ犯罪物語を語り合う『四つの犯罪』で初めて作者の温泉への憧憬も告白し、以後この作品で初登場した運地一(うんち・はじめ)や似蛭(にひる)氏が活躍する温泉探偵もの『七つの墓場』や『うぐいすの鳴く夜』が描かれることになる。
これらの作品は、今見ても完成度が高い推理ドラマであり、なおかつ『ガロ』時代の旅ものを思わせるユーモアが随所に散りばめられた好篇だが、つげ本人は生活の苦しさからか、それとも少年時代の暗い記憶のせいか、貸本マンガ専業になる頃からだんだんと作風が暗くなっていき、ペシミズムの方向に進んでいく。金のために呪われた煙突を掃除する男の物語『おばけ煙突』、目の前で死んだ強盗犯の残した金に目がくらむ少年が主人公の『ある一夜』、砂漠の穴の中に取り残された男たちが生きようともがく執念と欲望が逆に破滅を招く『灼熱の太陽の下に』など、困窮に喘ぐ作者の心境を色濃く反映したものが多くを占め、推理ドラマでもエドガー・アラン・ポオの資質に近い『クロ』や、つげが敬愛して止まない葉山嘉樹の影響が濃厚な『不思議な手紙』などの暗いタッチが主流を占め、当時の貸本マンガの主要読者層だった小学校高学年~中学生から不評を買うこととなった。
『少年マガジン』と『少年サンデー』の創刊によって貸本マンガ業界自体が衰退していくと、友人で貸本マンガ家である辰巳ヨシヒロなどの勧めもあって、従来の時代劇や推理ものに加えてSFや青春ものなど様々なジャンルに手を染めるようになり、一方、さいとう・たかを、佐藤まさあき、白土三平などこの頃の人気漫画家の絵柄を真似ることも要求される。そうした逆境の中にあっても作品は一定の完成度を保ち、職人としての巧さを発揮している。また、これらの一環で描かれた少女マンガからは名作『古本と少女』の初期型が生まれ、作者本人はあまり意に染まない作品としているが、ノンコ&甚六シリーズの最終作『兄貴は芸術家』は、ガロの『沼』と同時に描かれたために、誰の真似でもない独自のつげ義春タッチによって描かれている点は注目に値する。
[編集] 『ガロ』時代(1966~70)
『ガロ』には創刊当初、漫画家や編集者がかつての仲間を探す尋ね人欄が設けられていたが、社長の長井勝一自身が三洋社時代に一緒に仕事をしたことのあるつげ義春の所在をここで尋ね、つげがそれに応えるという形で、つげはガロに創作の場を得ることになった。当時つげは白土三平の赤目プロの仕事も手伝っており、ガロ移籍にあたっては白土の尽力もあったようである。
新しい場に移ったつげは満を持して『沼』と『チーコ』の二作を発表する。『沼』には後の夢日記ものを思わせる漠然とした不安感で統一され、つげ漫画のトレードマークであるおかっぱ少女も初登場するが、当時の『カムイ伝』目当てでガロを買う読者層にはまったく相手にされず、つづく『チーコ』もほとんど無視に近い評価だった。
傷心のつげを白土は千葉県大多喜の寿恵比楼旅館に招待し、また赤目プロのマネージャーは井伏鱒二を読むよう勧めて、これらの経験からつげは旅に夢中になり、それを漫画にする手法を編み出していくことになる。この頃、つげは水木しげるの仕事を手伝っていたことから、背景は墨絵のように豊饒でありそれに反してキャラクターは淡く儚い水木タッチを取り入れ、絵柄を大胆に改変するようになる。
こうして翌1967年にはユーモラスな世捨て人の日常スケッチである『李さん一家』や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』、小さな村の騒動記『西部田村事件』、そして紀行文学のスタイルを借りた『二峡渓谷』、『長八の宿』、『オンドル小屋』などを立て続けに発表する。しかし、旅は必ずしもつげの心を解放するものとは言えず、群馬県湯宿温泉を訪ねた時には打ち捨てられたような旅館に強烈な孤独と世捨て人の境地を味わい、その時の経験は仙人のような犬の物語『峠の犬』や雪国の孤独な旅を描いた『ほんやら洞のべんさん』を経て、翌1968年の『ねじ式』と『ゲンセンカン主人』に結実する。
『ねじ式』は養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験が元になっているが、作品は前衛的でシュールである。つげ本人は一時期これを「ラーメン屋の屋根の上で見た夢」と評していたが、実際はストーリー漫画を10年以上にわたって描き続けてきたつげが、ストーリーを作ることに疑問を覚えるようになってそこから意図的にずれていこうとする緻密な計算に基づくものだった。時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝って、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世代が当時夢中になっていたアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。しかし、つげは湯宿温泉で味わった境涯を素直に漫画にした『ゲンセンカン主人』以降いったん本来の領分である抒情詩的な漫画の方へと戻ることになり、あくまでもマイペースだった。
[編集] 『ねじ式』以降(1970~現在)
ガロにおける最後の作品となった『やなぎ屋主人』では、それまでの団子っ鼻に丸い目の主人公を排除して、『ゲンセンカン主人』の主人公の顔をより自画像に近づけた劇画風のタッチを編み出し再度の変化を見せつけたが、それ以降は予想外に巻き起こったつげブームにより印税収入が入ったせいもあって、だんだん寡作になっていく。また『ねじ式』は、つげに芸術漫画家という烙印を押しつけ、それによって発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになった。その中で、自分が置かれた状況に対する反抗からか、『夢の散歩』(72)という見た夢をそのまま漫画化するような実験を試み、再度ストーリー漫画からの脱却を目指すようになる。
ストーリーとしての完成を無視したこの作品は、つげにある種の解放感をもたらし、一方では当時徐々に進行しつつあったノイローゼの治療の意もあって、つげは見た夢をノートに綴っていく『夢日記』に夢中になり、1976年の『夜が掴む』以降夢日記の漫画化を試みるようになる。夢のシュールで漠然とした風景を描くために、つげはパースを狂わせ手前と後方の距離を滅茶苦茶にし幼稚な絵を意図的に描くようになる。『コマツ岬の生活』(79)では岸壁の下にビルがありその背後からビルの2階ぶんの大きさの主人公が現われ、『必殺するめ固め』(79)では主人公は異様な形に丸め上げられるという具合に、かつて見たことのない不安と恐怖のイメージが氾濫し、『ねじ式』の頃とはまた違った不気味な世界が出現する。また、その夢漫画の中で、つげはフロイト的な解釈を試みようとしているのか、女性の肉体だけは過剰なほどにリアルで豊満に描かれていることも注目に値する。一連の夢漫画は、結果としてつげに漫画技法の崩壊をもたらし、また精神的にも追い詰められていったことから、『ヨシボーの犯罪』(79)で終了することになる。しかし、女性の肉体をリアルに豊満に描くというタッチは、その後も更に推し進められ、作品に独特のエロティシズムをもたらすようになる。
つげがこうした成熟した女性像を描くようになったのは『ゲンセンカン主人』からだが、1970年代の初期にはエロ漫画を描く実験も試みていたことから、つげ作品における女性像は1970年代以降急激に変貌を遂げることになる。かつてのおかっぱの少女は、若夫婦ものの妻に受け継がれるが、かつてのような神秘性は失われている。このおかっぱ奥さんも1980年の『日の戯れ』を最後に引退し、以降はエロ風の女性像か生活に疲れ痩せさらばえた女性像のみとなる。その背景には、つげ自身が年を重ねて女性を憧憬の対象として見られなくなったということもあるのだろうが、つげ自身がもはや恋愛とか性愛といった世俗の境地を超越してしまったことも影響しているようである。
1980年代以降のつげ作品は、もはやユーモアも旅の解放感もシュールな夢もなく、ただただ現実の厳しさと世捨て人への憧れを綴っていく。世捨て人を夢見ながらも現実の中で慌しく生きていくしかない主人公を描いた『無能の人』はユーモアといえば言えなくもないが、かつてのおおらかさは失われている。
『無能の人』と前後して、つげは少年時代の密航体験や『チーコ』の同棲カップルの後日談を描き、後者の『別離』(87)は、ラストに主人公の自殺未遂事件を持ってきて、かつて見たことのない細い線で、主人公のやるせなさと絶望を表現した。『ガロ』時代以降のつげ漫画が究極の完成を見せ、新たな可能性をも感じさせるラストだったが、それ以降新作は一切描かれなくなった。
ところが90年代に入ると『無能の人』が映画化され、再びつげブームが巻き起こる。この頃のつげは『ガロ』などの誌上インタビューに登場したり、コメント文などを積極的に寄稿している。そして自身の原作を用いた映画にゲスト出演するなど、公の場での活動も目立っていた。しかしこの頃には「漫画を描くことに興味が無くなって来た」と発言しており、そのコメント通りに現在も休筆中である。
[編集] 主な作品
[編集] 漫画
- 生きていた幽霊
- 四つの犯罪
- おばけ煙突
- ある一夜
- 不思議な手紙
- クロ
- 灼熱の太陽の下に
- 噂の武士
- 沼
- チーコ
- 李さん一家
- 紅い花
- ねじ式
- ゲンセンカン主人
- もっきり屋の少女
- やなぎ屋主人
- 夢の散歩
- 義男の青春
- リアリズムの宿
- 外のふくらみ
- 必殺するめ固め
- 日の戯れ
- 無能の人
- 別離
[編集] 随筆
- 貧困旅行記
- つげ義春とぼく
[編集] 映像化作品
[編集] ゲーム
- 名作浪漫文庫 ねじ式(PC-9800シリーズ、X68000用。制作:ツァイト、ウィル)
つげはかつてスーパーマリオブラザーズがお気に入りで、息子とよく遊んでいたという。この事があり、自作のゲーム化を快諾した。つげ自身もこのゲーム制作に協力している。内容は作家である主人公「T」が、ふとした事でつげ作品の世界を彷徨い歩き、様々なつげキャラクターと出会う。その中で自分自身とはなにか、という問いを解していくというノベル風アドベンチャーゲームとなっている。付録として漫画「ねじ式」などが掲載された冊子が付いている。
[編集] 関連書籍
- つげ義春の温泉
- つげ義春を旅する