駒姫
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駒姫(こまひめ、1580年〔天正8年〕- 1595年9月5日〔文禄4年8月2日〕)は、最上義光と大崎夫人の娘で、羽柴(豊臣)秀次の側室。別名、お伊万(おいま)。伊達政宗の従妹に当たる。
天正18年(1590年)、九戸政実討伐の帰途に山形に立ち寄った秀次は、駒姫の美しさに目を止め、側室にしたいと義光に申し出た。こうして駒姫は山形から京へと嫁いでいった。しかし文禄4年(1595年)の七月十五日、秀次は高野山で切腹させられてしまった。そして駒姫も、八月二日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ十一番目に処刑された。まだ実質的な秀次の側室になる前だったとも言われている。父の義光が、必死で助命嘆願に廻ったが間に合わなかった。まだ十五歳の若さであった。
辞世の句「罪をきる弥陀の剣にかかる身のなにか五つの障りあるべき」
娘の死を聞いた母の大崎夫人も、悲しみのあまり間もなく亡くなった。
墓所と菩提寺は山形市の専称寺。