馬融
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馬 融(ば ゆう, 79年(建初4年) - 166年(延熹9年))は、中国・後漢代の学者。右扶風・茂陵県(陝西省興平市)の出身、字は季長。
110年(永初4年)、大将軍の鄧隲に徴され、校書郎となった。しかし、鄧太后に逆らい、任用されず、禁錮されてしまった。
後、召されて郎中となり、桓帝の時に、南郡太守となった。しかし、梁冀に従わず、罷免された。
再々度めされて、議郎となり、「東観」にあって著述をこととしたが、病いによって職を辞した。
彼の評判は頗る高く、才能にすぐれ、文辞を能くし、容貌もすぐれており、博覧強記であって、世の通儒と評された。諸学生を教導すること数千を数え、また、儒者の節に拘らず、自由な生活を尊重した。その弟子に、盧植・鄭玄がある。
[編集] 著述
[編集] 伝記資料
- 『後漢書』巻90