青葉山弘年
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青葉山 弘年(あおばやま ひろとし、1950年4月3日-1997年9月24日)は宮城県黒川郡大郷町出身の元大相撲力士。木瀬部屋所属。本名は高橋 幸一(たかはし こういち)。身長187cm、体重132kg。得意手は右四つ、吊り。最高位は東小結(1979年1月場所)。
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[編集] 来歴
宮城農業高校時代は柔道部に所属し活躍した。知人の紹介で木村瀬平(元前頭・清の盛)を紹介され、高校を中退し木瀬部屋に入門。1968年11月場所に初土俵を踏んだ。以降、順調に番付を上げて行き1972年1月場所には西幕下筆頭で4勝3敗と勝ち越し、十両昇進が期待された。しかし東幕下4枚目で5勝2敗の伊勢ノ海部屋の白根山に先を越され、3月場所では東に回っただけだった。その3月場所では東幕下筆頭で3勝4敗と負け越したものの、八番相撲で勝ち4勝4敗となり番付編成上では4勝3敗と勝ち越しとなり、先場所も同地位で4勝4敗の成績で渥美洋が十両に昇進していたため、十両昇進が期待された。しかし、昇進が見送られてしまい翌場所も同じ地位に留まったが、3勝4敗と負け越してしまい、またもや十両に昇進することが出来なかった。このとき、白根山の師匠は伊勢ノ海監事であり、渥美洋の師匠は伊勢ヶ濱理事であったため、大部屋の無形の圧力があったのではないかといううわさも流れた。その後一時は幕下中位に低迷していたが、1974年5月場所に2年越しで十両に昇進した。以降は順調に番付を上げて行き、1975年11月場所には新入幕を果たした。その場所敢闘賞を受賞、右四つからの豪快な吊り技で観客を沸かせた。派手な塩撒きで人気があり、一時は幕内上位から三役に定着し、大関昇進を期待された。しかし、糖尿病を患ってからは精細を欠く相撲が多くなり、三役に昇進するのが精一杯であった。1981年11月場所を最後に十両に陥落。十両でも本来の相撲が取れなくなり、1982年9月場所を最後に現役を引退し、年寄・桐山を襲名した。後に浅香山に名跡変更し木瀬部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たったが、持病の糖尿病が悪化し1997年9月24日に死去した。
[編集] 戦績
- 幕内成績:208勝257敗(31場所)
[編集] 三賞
- 敢闘賞:2回(1975年11月場所、1980年9月場所)
- 技能賞:1回(1978年11月場所)
[編集] 各段優勝
- 序ノ口優勝 1回(1969年1月場所)
- 三段目優勝 1回(1970年11月場所)
- 十両優勝 1回(1975年5月場所)
[編集] 改名歴
- 高橋 幸一(たかはし こういち)(1968年11月、番付外)
- 青葉山 幸一(あおばやま-)(1969年1月-1972年5月)
- 貴城山 幸一(たかぎやま-)(1972年7月-1974年1月)
- 青葉山 弘年(あおばやま ひろとし)(1974年3月-1982年9月)
[編集] 年寄変遷
- 桐山 博光(きりやま)1982年11月-1985年2月
- 浅香山 雅遂(あさかやま)1985年2月-1997年9月