陳宮
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陳宮(ちんきゅう、154年? - 198年)は、後漢末の軍師である。字は公台。兗州東郡東武城の出身。
[編集] 生涯
初め曹操に仕えていたが、194年、張邈・張超兄弟らと共に反乱を起こし、呂布を主君に迎え入れて参謀役となる。反乱の理由には諸説あるが、曹操が徐州で行った虐殺が原因ではないかと言われている。しかし、翌年の侵攻にて敗走し、張兄弟は殺された。その後呂布と共に劉備の配下となるが、張飛に不満を持つ者(陶謙の忠臣だった曹豹の説あり)と共謀して徐州の城を奪う。しかし翌年、郝萌らと共謀し呂布に反乱起こす。曹性により鎮圧されるが、呂布はこれを許している。その後劉備、曹操に忠誠を誓う徐州の陳珪、陳登親子の策により呂布軍は敗走、下邳の城に辿り着く。ここで献策をしたが、高順と陳宮の不仲により味方が瓦解するのではないかと恐れた呂布の妻の厳氏に反対に遭い、受け容れられなかった。結局、侯成、宋憲、魏続らの反乱により、曹操に呂布と共に捕まる。曹操は陳宮の才能と人柄を知っていたので、もう一度自分に仕えるように勧めた。しかし陳宮は、それを断って潔く死刑にされた。曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、娘は嫁ぐまで終始面倒を看たという。
『三国志演義』においては、董卓暗殺に失敗して洛陽から逃げ出した曹操を捕まえる中牟県の県令として登場する。曹操の志に感服し共に逃亡するが、曹操は途中で立ち寄った曹操の知人・呂伯奢の家で、呂伯奢の家族に殺されるのではと疑心暗鬼にかられ、呂伯奢の家族を殺害。さらに家から逃げ出す途中、何も知らない呂伯奢をも殺したために、曹操を見限り曹操の下を離れる。その後、張邈を頼り、呂布の参謀になっている。曹操が呂伯奢の家族を殺した話は王沈の『魏書』、郭頒の『世語』、孫盛の『雑記』に記録されているが、正当防衛とした『魏書』から、後になるに従って曹操の暴虐さが強調される記述になっている。しかも、そもそも呂伯奢の件は陳宮と関わりはない。また、呂伯奢をも殺したとするのも演義の創作である。
[編集] 人物像
陳宮は王佐の才の持ち主として、主君を補佐する能力にかけては非常に傑出していたという。後に荀攸は「堅実さと策略ならば、自分は陳宮には遠く及ばない。しかし、自分が仕えるに足る主君を見る目だけなら、陳宮は自分に遠く及ばない」と評している。このように、陳宮は仕えるべき人物の選択を間違えていたと評されることが多い。しかしこれは、陳宮および呂布が、後世正統とされた魏の太祖・曹操に対抗した存在であるためで、あくまで曹操側の視点でしかない、との見方もある。
下邳城で陳宮の献策が活かされなかった理由が、呂布の不信感や思慮の浅さにあったとされる。一方で、陳宮が後に参加した臣下であったため、古参の高順などと対立し孤立したことにあったという見方もある。陳宮と呂布の間柄については、後ろ盾がない状態で曹操を敵に回したため、呂布を利用しようとしていたと考えられている。郝萌らと反乱を計画した事がこれを裏付けている。しかし、正史で陳宮の謀反を扱った部分では、陳宮の参加が明言されておらず、あくまで推測の段階で止められているため濡れ衣であるとし、陳宮と呂布の仲は非常に良好であったという説もある。しかし、この説には演義の影響が見られる。
処刑されることを当然とし、家族の処遇は曹操に任せると言い放った陳宮の最期であるが、こうした剛直な性格に加えて、演義においては、曹操の残虐性を見て「仕えるべき主君ではない」と見限ったことが伏線となり、「命を捧げる主君を誤らない」という陳宮の信念とともに、二人の因縁めいた関係が描かれている。史実上の彼の行動には不明な点が多く、演義でも史実とははるかにかけ離れた脚色が行われている。吉川英治著の三国志などでは、呂布を心から信服しており、その人柄に惚れているような描写がある。このように、不明瞭な彼の心中は多くの創作家に影響を与えたようである。