長倉祐省
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長倉 祐省(ながくら すけよし、生年不詳 - 天文10年(1541年))は戦国時代の武将である。能登守。日向伊東氏家臣。
伊東尹祐・祐充の二代に仕えた家老で、天文2年(1533年)に伊東祐武が乱を起こした際は、祐武を見限って伊東義祐・祐吉方について戦った。乱の収束後、他の家老と話し合い、義祐をさしおいて祐吉を擁立、家督に押し上げた。ところが、その祐吉は数年で病死してしまい、出家の義祐が次を継承する運びになる。
このため祐省の立場は非常に悪くなったが、それでも彼を支持する者がかなりいたので、天文10年(1541)、ついに穆佐、長嶺、石塚、田野の四ヶ所の城を味方につけて反乱を起こした。さらに飫肥の島津忠広の援軍をも取り付け、9月3日未明、宮崎城の義祐方と一戦に及んだが、陣立てに不備があり、まもなく撃退され、戦死した。
結果的に、島津豊州家はこの反乱に加担したがために伊東義祐の飫肥進出を誘発し、長期にわたる苦闘を強いられることになったのである。