酒井忠方
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酒井 忠方(さかい ただみち、文化5年(1808年) - 明治20年(1887年)2月14日)は、出羽松山藩の第6代藩主。第5代藩主・酒井忠禮の子。正室は奥平昌高の娘・於鉄。官位は従五位下。石見守。
幼名は春之進。文政4年(1821年)、父の死去により後を継いだ。藩財政再建のために、桑や漆などの生産を奨励し、倹約を行なうなどして藩政改革に努めたが、天保の大飢饉で大被害を受けて、本家の庄内藩から借金をするという有様であった。しかし窮民の援助では尽力している。弘化2年(1845年)10月20日、家督を子の酒井忠良に譲って隠居し、明治20年(1887年)2月14日に80歳で死去した。法号:高岳院殿大居士。墓所:東京都新宿区袋町の光照寺。
- 酒井氏(松山藩6代)藩主
- 1821~1845
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- 先代:
- 酒井忠禮
- 次代:
- 酒井忠良