逸見元長
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逸見 元長(へんみ もとます、元禄12年[1]5月4日(1699年6月1日) - 宝暦10年12月22日(1761年1月27日))は、江戸時代の旗本。越後国新発田藩4代藩主溝口重雄の四男[2]。5代藩主溝口重元の弟。分家して幕臣となるが、幕府からではなく、代々本家の新発田藩より蔵米を給される家であった[3]。幼名は金弥。通称は隼人。母は重雄の側室で京都の人(昌蓮院)[4]。
元禄12年(1699年)生まれる。元禄16年(1703年)父重雄より500石を知行され、逸見隼人と改名する。宝永7年(1710年)には、兄重元の一字を拝領して元長と名乗り、また藩内では「隼人殿」を改めて「隼人様」と称するようにと命ぜられる。享保15年(1730年)、6代藩主溝口直治より年々蔵米1000俵を給されることとなり、寄合に列し、徳川吉宗に拝謁する。同17年(1732年)には7代藩主溝口直温よりさらに2000俵を加増される。寛延2年(1749年)隠居して家督を子の逸見副長(すけます)に譲り、長翁と号す。宝暦10年12月22日(1761年1月27日)に62歳で歿。法号長翁(宝徳院とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬る。
元長の家が溝口ではなく逸見を称したのは、溝口家が甲斐源氏逸見氏の流れを汲むとされたことによる。元長が分家した時期には、他にも一族の横田溝口家より宝永元年(1704年)に分家した逸見勝興が同様に逸見を称している。また同年に甲府綱豊が将軍世子となり家宣と改名した時、これを憚って4代藩主溝口宣廣は重雄に、その世子溝口宣盛は重元にそれぞれ諱を改めたが、この時用いた「重」の字は溝口家の遠祖とされる鎌倉時代の武将逸見義重にちなむものであった[5]。これらのことからこの時期、溝口家においてその系譜に関する意識が強まっていたことをうかがうことが出来る。