近衛忠房
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近衛 忠房(このえ ただふさ、天保9年8月6日(1838年9月24日) - 明治6年(1873年)7月16日)は、幕末期の公卿。近衛忠熙の四男。母は、表向きには島津斉興の養女・興子とされているが、実際の生母は忠熙の側室で左少史山名亮績の娘・某女。正室は島津斉彬の養女・貞姫。号は光山。官位は従一位・左大臣。
島津斉彬の養女が妻であったこと、さらに父親も島津斉興の養女が妻であったことから、薩摩藩との関わりが深かった。1851年、権大納言となり、1862年には国事御用掛となる。しかし過激な尊王攘夷運動には反対で、1863年の8月18日の政変においては父と共に薩摩藩に協力して、長州藩の勢力を京都から追放することに尽力した。1866年、第二次長州征伐が起こったときには、長州征討を強行する幕府と、長州藩を擁護する薩摩藩の仲介を務めている。
明治維新後は神官となった。1873年、父に先立って36歳の若さで死去した。