赤松教康
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赤松 教康(あかまつ のりやす、1423年(応永30年) - 1441年10月14日(嘉吉元年9月29日))は、室町時代中期の武将。嘉吉の乱で有名な赤松満祐の子。通称は彦次郎。
1441年、父の満祐や叔父の赤松則繁と共に将軍・足利義教暗殺に中心的な役割を果たした。しかし直後、山名宗全を総大将とした幕府軍の追討を受けて、父の満祐は自殺したが、教康は満祐の命を受けて、赤松氏存続のために縁者に当たる伊勢国の北畠教具のもとへ逃亡したが、教具は幕府からの討伐を受けることを恐れて教康を匿うことを拒絶。これにより絶望した教康は伊勢で自殺して果てた。享年19。