許貢
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許貢(きょこう、? - 建安5年(200年))は中国・後漢末の官僚。
後漢末に官僚となり、揚州呉郡の都尉、のち同郡の太守を勤めた。『三国志』蜀書・許靖伝には彼と旧交があった旨記載している。また、袁術が後漢の朝廷に反乱を起こして皇帝を自称した際に彼に味方した周喁が故郷の会稽に帰還したが、許貢は彼を処刑した。
建安5年(200年)、『三国志』呉書・孫策伝が注に引く『江表伝』によると、許貢は急激に江東に勢力を拡大した孫策を警戒し、朝廷に「孫策は傑出した勇武の持主であり、項羽と似たところがあります。ぜひとも恩寵を与え、都(当時は許昌)に召還しましょう。もし召還せずに地方に放ったままにしておくと、必ず禍を招きます」と上表した。ところがこの上表を孫策配下の吏(下級官僚)が確保し、孫策に見せた。孫策は許貢に面会し、かれに問いただそうとしたが、許貢は自らの書いた手紙ではないと否定した。孫策は配下の武士数人に命じて許貢をくびり殺させた。
許貢の死後、彼の客人3人が復讐として孫策の殺害を計画し、実行した。3人とも殺されたものの一矢は孫策のほおを貫き、これがもとで孫策は死亡した。
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