西尾光教
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西尾 光教(にしお みつのり、1544年(天文13年) - 1616年1月8日(元和元年11月19日))は、戦国時代の武将。江戸時代では美濃揖斐藩3万石の大名。
はじめ美濃斉藤氏、次いで織田信長、そして豊臣秀吉に仕えた。この頃は美濃の曽根に2万石を領していた。秀吉没後は徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の大谷吉継の勧誘を拒絶して東軍に与したため、怒った吉継によって領地を焼かれた。関ヶ原では岐阜城・大垣城攻防戦、並びに美濃の地形に詳しかったことから、その先導役を務めるなどの功績を挙げた。これにより戦後、1万石を加増されて、揖斐藩3万石の藩祖となったのである。
1614年からの大坂の陣でも徳川方として参戦して武功を挙げたが、夏の陣直後の1615年11月19日、駿府にて死去した。嗣子が無く、後を甥の西尾嘉教が継いだ。