藤原吉野
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藤原 吉野(ふじわら の よしの、延暦5年(786年) - 承和13年8月12日(846年9月10日))は平安時代初期の貴族。式家綱継の長男として生まれる。母は綱継の異母妹という。
式家出身の母を持つ淳和天皇とは同年齢で親しく(天皇の乳兄弟とする説もある)、その生涯を天皇の為に捧げる事になる。駿河守として実績をあげて頭角を現す。淳和天皇の即位後は都に呼び戻されて側近として活躍し、天長3年(825年)に蔵人頭となって天皇の政策を助けた。わずか2年後には参議に抜擢され、その4年後には権中納言・右近衛大将・春宮大夫を兼任するに至る。
天皇が仁明天皇に皇位を譲ると、正三位中納言になるが、専ら淳和上皇の傍につき従った。承和7年(840年)に淳和上皇が危篤となり、兄の嵯峨上皇や仁明天皇に遠慮して「自分の遺骨を散骨して、この世に野心を残していないことを示して欲しい」と遺言すると、吉野は必死に押し留めようとしたが、間もなく上皇が崩御すると、吉野は泣く泣くその指示を実行したという。この時点で、政治の第一線から退き、上皇の息子である皇太子恒貞親王の為に尽くすことを考えるが、仁明天皇の慰留を受けて中納言の地位に留まっている。
だが、承和9年(842年)7月、突如恒貞親王や吉野らは謀反の疑いをかけられてしまう。親王は廃太子とされ、吉野は大宰員外帥に左遷させられてしまう(「承和の変」)。さらに3年後には山城国内にて幽閉されて失意の内に病死した。学問に優れて寛大で、淳和天皇だけでなく多くの人達から信頼されたという。
[編集] 略歴
- 弘仁4年(813年)以前 - 主蔵正
- 弘仁4年(813年) - 美濃少掾
- 弘仁7年(816年) - (後の淳和天皇の)春宮少進
- 弘仁10年(819年) - 従五位下駿河守
- 弘仁14年(823年) - 中務少輔、次いで左近衛少将・伊予守
- 天長元年(824年) - 従五位上左少弁
- 天長3年(826年) - 蔵人頭、同年正五位下
- 天長4年(827年) - 従四位下、伊勢守・皇后宮大夫・右兵衛督を相次いで兼任
- 天長5年(826年) - 参議
- 天長7年(828年) - 正四位下
- 天長9年(832年) - 権中納言・春宮大夫・右近衛大将
- 天長10年(833年) - 正三位、淳和天皇退位とともに春宮大夫・右近衛大将辞任
- 承和元年(834年) - 中納言
- 承和7年(840年) - 淳和上皇崩御
- 承和9年(842年) - 大宰員外帥に左遷(承和の変)
- 承和12年(845年) - 大宰員外帥も解任されて幽閉される
- 承和13年(846年) - 死去(61歳)