荻須高徳
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荻須高徳(おぎす たかのり、1901年11月30日 - 1986年10月14日)は、大正・昭和期の洋画家。愛知県稲沢市生まれ。小磯良平は東京美術学校(現・東京藝術大学)の同期生。新制作協会会員。
荻須は画家として活動期間の大半をパリで過ごした。初期の作品は佐伯祐三と同じく、ヴラマンクとユトリロの影響が見受けられ、パリの街角、店先などを荒々しいタッチで描いたものが多かったが、その後穏やかなタッチで造形性に富んだ構成でパリの都市風景を描くようになる。
荻須は1901年(明治34年)、愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の子として生まれる。愛知県立第三中(現・県立津島高校)を経て、1921年(大正10年)に上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。1922年(大正11年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1927年(昭和2年)に同校を卒業すると、9月に渡仏。1928年(昭和3年)、佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあう。
荻須の画家としての最初の成功は1928年(昭和3年)のサロン・ドートンヌ入選であった。1934年(昭和9年)には最初の個展をジュネーブで開催。この頃から、作風も佐伯と見分けのつかないようなものから、落ち着いた色調、静寂さを備えたものへと変化していく。サロン・ドートンヌ会員に推挙され、フランスでの地位を確立したかに見えたが、1940年(昭和15年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされる。この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。帰国後は新制作派協会の会員となる。
終戦後の1948年(昭和23年)、日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。以後死ぬまでパリで制作活動を行うことになる。1982年(昭和57年)にはフランス国立造幣局において荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユが発行され、後に同国大統領となるシラク・パリ市長(当時)は「最もフランス的な日本人」と彼を評した。1986年(昭和61年)パリのアトリエで死去。墓はパリのモンマルトル墓地にある。
[編集] 個人美術館
- 稲沢市荻須記念美術館
[編集] 主な作品
- 「広告塔」(1928)
- 「サン・タンドレ・デザール広場」(1938)(ポンピドゥーセンター蔵)
- 「モンマルトル裏」(1940)(東京国立近代美術館蔵)
- 「パリの屋根」(1950)
- 「金のかたつむり」(1978)(稲沢市荻須記念美術館蔵)
[編集] 受賞歴
- 1956年 レジオン・ドヌール勲章受章
- 1972年 勲三等旭日中綬章受章、中日文化賞受賞
- 1974年 メダイユ・ド・ヴェルメイユ受賞
- 1981年 文化功労者顕賞
- 1986年 文化勲章受章(没時追贈)