結城寅寿
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結城 寅寿(ゆうき とらじゅ(とらかず、ともひさ)、文政元年(1818年) - 安政3年(1856年)4月)は、水戸藩の執政。諱は朝道、晴明。
[編集] 家系
家系は結城氏の血筋。結城氏は鎌倉~室町時代から続く関東の名家であり、同じく古くから関東に栄えた小山氏、小田氏などとともに水戸藩の御三家と並び称された家柄である。結城氏が水戸藩士として仕官した後は歴代の重役を務める1000石の知行を以って遇され、その格式を保ってきた。
家伝によれば、系譜は以下の通りである。しかし、白河結城氏の一族、中畠氏の血筋とも。
結城晴朝―七郎晴信(嫡子。羽柴秀康、結城家を継ぐにより逼塞。徳川光圀、500石にて召し出し)―晴映―晴久―晴広―晴久―数馬晴徳―寅寿晴明(後に朝道)―七郎種徳=道家(大森家から養子)
[編集] 生涯
結城寅寿は水戸藩士 数馬晴徳の嫡男として生まれた。1824年に家督を継いで水戸藩の重臣となり、1833年からは藩主・徳川斉昭の小姓となった。斉昭からは若年寄、御勝手改正掛に任じられ、1842年からは執政となる。 当初は人物聡明にして主君 徳川斉昭や天狗の一派からも好感を受けていた。しかし、名門中の名門に生まれた結城は育ちは良く、けして陰湿な人物ではないが、名門に生まれたが故の誇りから生来、保守的な性格の持ち主であった。加えて持ち前の聡明さから上士層により形成された佐幕派の保守層の支持を受けて次第に台頭、藩内に結城派なる一派を形成するほどの勢力を築いていくことになる。
そもそも、水戸藩では上士層を中心に親幕府色を打ち出す諸生派と朝廷を信奉する天狗派にわかれ、代々藩内で闘争を繰り返してきた。8代藩主徳川斉脩の死後、諸生党では幕府との関係を親密にするため、将軍徳川家斉の庶子を養子に迎えようとするが、中士下士層を中心とした一派が先代斉脩の弟、斉昭を推したため、斉昭が藩主に就任したという経緯があった。故に上士層はいわば藩主の抵抗勢力となり、斉昭はその聡明さから中士や下士であっても優秀な人材を積極的に登用した。
結城は有力上士の一人として、天狗派の跋扈する水戸藩政に反発、保守層の勢力挽回のために、革新的な政策をとる斉昭やその腹心たる藤田東湖、戸田忠太夫らをはじめとした尊皇派と次第に対立を深めることとなった。結城は中士、下士層を中心に形成された尊皇派の台頭を防ぎ、藩内の親幕府勢力を回復するため、藩士そして斉昭と改革派の失脚を実現させて水戸藩の実権を掌握し、斉昭の後を継いだ徳川慶篤のもとでは専横の限りを尽くした。しかし1847年、幕府による介入で結城も失脚となり、隠居処分に処せられた。だが、かつて結城によって失脚させられた斉昭や改革派の恨みは凄まじく、斉昭や改革派がやがて復帰を遂げると、1853年に結城は拘禁されることとなった。やがて、結城は水戸藩の支藩にあたる高松藩の藩主で幕府内においては譜代大名の井伊直弼ら保守派との関係が深い松平頼胤が宗家の家督を欲しているのを知り、徳川慶篤の暗殺を図り、頼胤を藩主に迎えようと画策した。しかし、ことが露見し結城はその3年後に死罪に処せられたのである。享年39。
寅寿の子息である種徳も拘禁され、絶食のために獄死した。結城氏はこれにより藩士としては滅亡の憂き目を見ることとなった。ちなみにその後の結城氏は水戸藩士 大森氏から養子を迎え、水戸藩領内の久慈郡においてその家系を伝えた。