管子
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管子(かんし)とは、
管仲の著書だと伝えられているが、実際は異なるとされる。
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[編集] 成立
管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としている。成立についても戦国から漢代の長い時期に徐々に完成されたと考えられる。
管仲の著書であるとされているものの、実際は戦国期の斉の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられている。また、内容的に見ると、各篇によって異なった学派、思想的立場に立つ人たちの著作がまとめられていると見られ、その面から言えば、「雜家」の著作と呼ぶべきものと言える。「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」という言葉はよく知られている。
[編集] 構成
管子の構成は成立の事情と散逸した箇所があるため非常に複雑である。以下やや詳しく構成について述べる。
現存76編の構成は、
- 経言
- 外言
- 内言
- 短語
- 区言
- 雑篇
- 管子解
- 管子軽重
の八類に分類されている。
[編集] 来歴
『漢書』「芸文志」は86編であるといい、『隋書』「経籍志」では19巻本であるとされている。この19巻は86編を漢代以降に巻本にわけたものと考えられており、この間内容に大きな変化はないと思われる。『新唐書』「芸文志」では19巻本に尹知章注を付した30巻本があらわれた。『宋史』「芸文志」では24巻本の管子と19巻本の尹知章注本があるとされているため、尹知章注の11巻は散逸したらしい。24巻本は現行の房玄齢注本と同一であると考えられるが、現存部分が19巻まで注釈が詳しいことなどを考えると、尹知章注の散逸部分に原本の相当箇所を加え、新たに注釈者を房玄齢に仮託したと考えられる。
[編集] 亡逸した編について
つぎに現行76編と成立当初の86編の対応関係であるが、唐初においてすでに10編が失われ、76編となっていることが確認されている。しかし刊本になった宋代以降にも10編失われたという記述もあるため、成立当初からどのくらいの編が失われているか詳しくは解明できない。これを考える上の参考として、たとえば幼官第八と幼官図第九は内容が重複しており、幼官図のほうは元々図面の体裁であったと考えられること、また封禅第五十ははやく失われ、現行部分は『史記』封禅書からの抜粋であることが明記されていることがあげられる。編が失われるごとに既存の編を分割して編の総数を合わせることがおこなわれたと考えられている。
[編集] 八類の分類について
八類の分類がいつごろ現在の形に定まったかは明らかではないが、漢代にはすでに管子の一部を「経」とか「内」「外」などと分類することはおこなわれていたらしい。八類の分類は成立前後からすでに通行していたと思われる。
[編集] 思想
各々の篇の成立年代に関しては諸説あるが、「経言」は思想史上の史料として、「管子軽重」は社会経済史上の史料として重視される。また、農業史、農業技術史上の史料も各篇に散見されるが、「地員篇」は当時の土壌に関する認識をうかがう上での貴重な史料となる。
[編集] 歴史上の書誌分類
『漢書』「芸文志」は、「道家」に分類しているが、『隋書』「経籍志」以降清代の『四庫全書総目提要』にいたるまで「法家」に分類されている。
が、すでに宋代の陳振孫がこの書物を法家に分類することに疑義を呈している。
[編集] 参考文献
- 木村英一「管子の成立に関する二、三の考察」(『支那学』10, 1942年)
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