石岡郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾省台中県石岡郷 | |
地理 | |
位置 | 東経120°46" 北緯24°17" |
面積 | 18.2105km² |
人口 | |
戸口(2006年7月) | 4,534戸 |
人口(2006年7月) | 16,003人 |
政治 | |
行政区分 | 郷 |
郷長 | 劉宏基 |
地方自治機関 | 石岡郷民代表会 |
下部行政区画 | 10村119鄰 |
その他 | |
郵便番号 | 429 |
市外局番 | 04 |
郷花 | - |
郷鳥 | - |
郷木 | - |
別称 | 石崗仔 |
|
|
|
石岡郷(せきがんきょう、Shigang、シーガン、慣用読み:いしおか)は、台湾台中県に位置する鎮である。
目次 |
[編集] 地理
石岡郷は台中県東北部に医位置し、大甲渓と新社河に挟まれた谷地に位置している。東北は大甲渓を隔てて東勢鎮と、南は新社郷と、西は豊原市とそれぞれ接している。総面積計は18.2105km²であり、台中県の中で最も小さい郷鎮である。地勢は西南に及び北端が山岳地帯となっており、中間に狭い平原が広がっている。東西は約6.326km 、南北は4.579kmとなっている。
[編集] 歴史
石岡郷の旧称は「石崗仔」であり、元来大甲渓南岸の砂州に位置し、石礫が広がる地であったことよりこの名が付けられた。1920年に石岡庄。
石岡は拍仔海平埔族(Pazeh)樸仔籬群(Varutto)の社寮角社の居住地であり、また早期には泰雅族(Atrayal)も活動していた。康熙年間末になると石岡への客家人がによる入植が開始された。乾隆26年には漢人による開発は現在の土牛村にまで及び、土牛が漢番の境界とされ漢人がこの境界を越えて入植することは厳しく禁じられていた。清初は彰化県猫霧栜東西堡に帰属していた石岡地区は、乾隆中期になると栜東上下堡に改編され、同時に石岡及び東勢鎮、豊原を上堡と改められた。光緒13年に台湾省が設置されると台湾府台湾県栜東上堡と再度改められた。
1896年、日本による台湾統治が開始されると、台中県が設置されその下に弁務署が設置されるようになった。石岡は台中県葫蘆墩弁務署栜東上堡に帰属し、石崗区庄長が置かれ石崗仔庄、先塘坪、社寮角、土牛及朴仔口庄などを管轄するようになった。1902年、三県三庁及び弁務署制を廃止し庁制が施行され、台湾全土に20庁が設置され、庁の下に各支庁が設置された。1920年7月、大規模な行政区改革が実施され、台湾全土に5州3庁、その下に郡街庄が設置された。台中は州に改められ,堡は郡へ改められた。石岡地区は「石岡」と改称されると同時に台中州東勢郡石岡庄と改められた。 光復後、台中県東勢区石岡郷と改称された。1950年の区署廃止により台中県石岡郷と改編され現在に至っている。
[編集] 経済
[編集] 行政区
[編集] 歴代郷長
代 | 氏名 | 任期 |
---|
[編集] 教育
区分 | 数 | 名称 |
---|---|---|
大学 | 0 | - |
高中 | - | - |
高職 | 0 | - |
国中 | - | 台中県立石岡国民中学 |
国小 | - | 台中県立石岡国民小学 |
[編集] 交通
種別 | 路線名称 | その他 |
---|---|---|
省道 | 台3線 |