相良長定
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相良 長定(さがら ながさだ、?-享禄4年11月11日(1531年12月19日))は、相良氏の第15代当主。第12代当主・相良為続の長兄・相良頼金の子。官位は民部大輔。
1524年、犬童長広と共謀して相良氏第14代当主・相良長祗を人吉城から追放して家督を奪った。翌年、水俣城に逃れていた長祗を自殺に追い込んで完全に家督を我が物にしたが、この長定の行為に対して長祗の庶兄に当たる相良長隆(瑞賢)が報復に乗り出し、僧兵をかき集めて反乱。長定は人吉城から追放されてしまった。その後、長定は筑後国に亡命したが、やがて彼の後に当主となった相良義滋によって1531年11月11日、人吉筒口法寿寺門外で殺害されてしまった。法号は西池蓮秀。