百島
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百島
1.大阪市西淀川区百島(ひゃくしま)は、大阪湾淀川河口に位置する。
2.愛知県津島市百島(ももじま)は、JR名古屋駅から西方向、約10KMに位置する(七宝町に隣接)。
3.長野県木曽郡日義村百島(ももじま)には、木曾義仲一族の菩提寺 徳音寺がある。
4.広島県尾道市百島町に属する瀬戸内海の百島(ももしま)。
島の周囲は10キロ程度。面積3.19平方キロメートル。 山陽道筋のほぼ中央に位置する。 芸予諸島内の北方の天辺に浮かび、尾道港から鞆の浦の海道中間にある。
百島(ももしま)の地名の由来は、昔、桃樹が多く「桃島」と読んだが、いつの頃からか「百」の字が充てられるようになったとも言う。
また、かつて磯島と五十島の二島があって、それが一島になって百島に改めたとも言う。
さらに一説として、尾道から今治までの芸予諸島が百にも及び、その天辺に位置し、その百諸島を代表する島として百島と名づけられたとも言う。
室町時代になるまで百島の歴史資料は殆ど皆無だが、菅原道真が大宰府に流される途中、百島に立ち寄り一袖残したいう伝説もあり、現在百島町福田地区に天満宮がある。
また1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で破れた赤松満祐の一族が百島に逃れて住み着いて、以来追っ手の襲来に備えた弓の稽古が由来の「お弓神事」が今尚毎年1月11日に催しされている。これは、百島村上水軍との関連が強いと言われている。
室町時代~安土桃山時代: 1504年 村上喜兵衛義高 百島茶臼山城を築城。 1579年 村上喜兵衛高吉 百島萬松山西林寺(曹洞宗)を建立。 1592年 村上喜兵衛高吉 小早川隆景の命を受け朝鮮に出兵。 毛利氏より感状を貰う。
江戸時代:
1700年(元禄13年)に福山藩内での御検地水帳が資料として残存している。屋敷所有者、屋敷借用者、本百姓、水呑百姓、石高、耕地数などが記録されている。
明治~昭和初期:
1895年(明治28年)百島人口2,127人の内59世帯255人(12%)が、北海道空知郡栗沢町茂世丑地区に入植開拓。現在、百島4~5世代の郷土出身者が定住。
1913年(大正2年)百島人口403世帯 2,358人。 耕地の面積、島民の人口を養えず、北海道、関東、四国、九州の国内四方へ。 さらに海外である北米南米、ハワイ、豪州、マニラ、朝鮮、台湾へ移住。
当時の沼隈郡誌の記録には、「百島の者、一般に質朴勤勉にして徳義を重んじ、信義を守り、克く難苦に堪え、忍耐力強気を以て、至るところに成功者を出し、土地開拓に或いは商業に漁業、運送業に大規模の経営を競る者、その数少なからず」云々・・とある。
1923年(大正12年)
沼隈郡誌による「百島村人文誌」には、このように記されている。
「人情敦煌にして懇切掬べきものあり、殊に女子の勤労と男子の海外発展には特筆に価す。又敬神崇佛の念一段深く、貯蓄心に富み、納税成績良好なり」。
戦後~現代:
1945年(昭和20年)の戦後、復員等で百島の人口は、ピークとなる。 その後は、過疎化へと人口減少が甚だしく進む。
現在、百島幼稚園と百島小・中学校が統合され併設されている。
最近では、テレビドラマやバラエティ番組で有名人、著名人多数が百島を訪問している。
また映画でも数本、百島がロケ地として選ばれている。 記憶に残る映画は、地元尾道出身の大林宣彦監督の映画「あした」。
2001年(平成13年)には、タレントの間寛平氏が企画・関西テレビ放映による「百島アミーゴマラソン」が行われた。メキシコオリンピック銀メダリスト. 君原健二さんをはじめとして、元ボクシング世界チャンピオン、芸能人多数、また全国からのマラソン愛好者が百島に集った。
かつては、百島の貝(あさり)と百島大根が、とりわけ美味しいと有名であった。
現在、百島の代表的な農業産物は、イチゴ、きぬさやエンドウ、玉ねぎ、キャベツ、ブロッコリー、ぶどう、ささげ、みかん、でこぽん、ポンカン、八朔、甘夏、冬橙、らっきょう、ゆず、レモン、ネーブル等々。
とりわけ百島のイチゴ農園は、定年後百島に帰島した藤田氏が、百島活性化のためイチゴ栽培経営に乗り出した。その物語は2005年12月24日、テレビ朝日が「人生の楽園」という番組で全国に紹介された。
その他、百島在住の著名人として、演歌「氷雨」の作曲作詞家のとまりれん等が暮らしている。
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