白井義男
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白井 義男(しらい よしお、1923年11月23日 - 2003年12月26日)は、東京都荒川区出身の元プロボクサーで、元世界フライ級王者。日本人として初めての世界王者である。右ボクサータイプ。
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[編集] 日本人初の世界王者
白井は、小学6年生時の夜祭りの余興で行ったカンガルーとのボクシングに負けて以後、ボクシングにのめり込んだという。プロデビューは戦時下の1943年。8戦全勝の成績を残すが、招集されて海軍へ。復員後、ボクシング界へ復帰したものの、海軍時代に特攻機の整備をしたことによる腰痛のために引退寸前であった。しかし、そのころジムに出入りしていたGHQ職員のユダヤ人・アルビン・R・カーンに見出され、全面的な支援の下その素質を開花させていくことになる。
ちなみに、媒酌人は遠戚の浅沼稲次郎代議士。
カーンは、白井を自宅に住まわせ、栄養豊かな食事を与え健康管理を徹底した。また、当時の日本人ボクサーに多く見られた攻撃偏重のボクシングを、防御主体のよりテクニカルなスタイルに矯正した。これにより息を吹き返した白井は、ついに1952年、ダド・マリノ(アメリカ)との世界タイトルマッチに勝利し王座を獲得。以後4度の防衛を果たすこととなった。敗戦に打ちひしがれた日本人にとって、白井の活躍は"希望の光"でありその功績は計り知れない。
[編集] 主な戦績
- 1943年11月 プロデビュー。8戦全勝の成績を残すが、1944年海軍に召集。1945年復員。
- 1946年8月 ノンタイトル6回戦に判定勝ちし現役復帰。
- 1948年7月30日 石森信之に2回KO勝ち。カーンと組んでから初試合・初勝利を果たした。
- 1949年1月28日 日本フライ級王座に挑戦。花田陽一郎に5回KO勝ちし王座獲得。以後3度防衛。
- 1949年12月15日 日本バンタム級王座に挑戦。堀口宏に10回判定勝ちし王座獲得。フライ級と合わせ2王座を同時保有。以後2度防衛。
- 1951年5月21日 ノンタイトル10回戦。現役世界王者、ダド・マリノに判定負け。
- 1951年12月4日 ノンタイトル10回戦。ダド・マリノに今度は7回TKO勝ち。
- 1952年5月19日 世界フライ級王座に挑戦。ここまで1勝1敗の王者、マリノに15回判定勝ちし王座獲得。以後4度防衛を果たす。
- 1952年11月15日 世界王座初防衛戦。マリノとのリターンマッチに15回判定勝ちし決着をつける。
- 1954年11月26日 パスカル・ペレス(アルゼンチン)に15回判定負けし王座陥落。
- 1955年5月30日 世界王座再挑戦。ペレスとのリターンマッチに5回KOで敗れ、現役引退。
[編集] 引退後
白井とカーンとの関係は、選手とコーチの範囲を超えるまさに「家族」と言えるものであった。引退後においても、それは変わらず、恩師・カーンとの交流は続いた。晩年のカーンは認知症になったが、白井夫妻の厚い介護を受けた。子供のいないカーンは、死後全ての財産を白井に譲ったという。白井も、カーンの「ボクシングビジネスに手を出してはいけない」という忠告を守り、1995年に具志堅用高とともに白井・具志堅スポーツジムを設立、同ジムの名誉会長に就任するまで、解説・評論活動以外でボクシングと関わることはなかった。
最終成績は48勝(20KO)8敗2分。世界戦戦績は7戦5勝2敗。
[編集] 語録
- 「(指導者として)根本はいい選手をつくることが使命なんでしょうね。でも、それ以上に、教え子たちに"ボクシングをやってよかった"って思ってもらいたい。だから、繰り返し言うのは、打たれちゃいけないってこと。避けて打つ、打って避ける。こういうボクシングをしなきゃ、将来、後悔することにもなりかねない。顔の形もくずれるし、網膜剥離になってしまうこともある」
- 「やっぱり『健全なるスポーツ』であるボクシングをしなきゃいかんと、これはみんなに言い聞かせてるんです。殴られて殴るのは子どもでもできる。打たせないで打つところに、やっぱり妙技があるんでね」
[編集] 関連記事
カテゴリ: 格闘技関連のスタブ項目 | 日本のボクサー | 1923年生 | 2003年没