畠山尚誠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
畠山 尚誠(はたけやま なおまさ、享禄4年(1531年) - 没年不詳)は、畠山義就の流れを汲む畠山総州家7代当主。畠山在氏の嫡子。仮名次郎。
父の在氏が細川氏綱・三好長慶と細川晴元との戦いで、晴元方に味方し敗れ没落してから家督を継承した。1549年には代替文書とも言える観心寺への弾銭等の免除発給文書の存在が知られており、その頃までには家督を継承していたと思われる。
1551年に家臣、平左衛門大夫誠佐(誠佐の「誠」の字は尚誠の偏諱と思われる)と遊佐越中守家盛等とともに河内奪回戦を行おうとしている。河内畠山氏(政長流)の内紛をついての計画であったが、三好長慶と結んだ畠山尾州家の基盤は強固なもので、試みは失敗に終わった。
その後、1556年に畠山高政(政長流)が安見宗房とともに布施氏を征伐しようとした際、布施氏方に加勢した勢力の一人として登場するが、この時点では畠山総州家は畿内の一勢力にすぎないと言えるほど没落していたといわれる。1565年に足利義輝暗殺後の一乗院覚慶の求めに応じているが、その後は歴史の表舞台から姿を消す。一説には松永久秀の仲介で高政の家臣となったという説もある。