田豊
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田豊(でんぽう、? - 200年)は、中国、後漢末の武将。袁紹の謀臣。字は元皓。
鉅鹿の人とも勃海の人ともいう。若いころから博学多才の人物として名を知られていた。最初は後漢王朝の臣であったが、宦官の専横などを見て朝廷に嫌気が差し、官職を辞して郷里に引き上げた。その後、袁紹の参謀として仕えるようになる。曹操が劉備と戦って本国を留守にしているとき、その背後を襲撃するようになど、袁紹に先見性のある進言を何度もした。しかし、剛直な性格だった田豊は歯に衣着せぬ厳しい発言をしたため、次第に袁紹に疎まれるようになる。
官渡の戦いに臨んで持久戦を主張したため、短期決戦を考えていた袁紹に全軍の士気を阻喪させるつもりかとの怒りを買って投獄される。そして袁紹が曹操に大敗した後、逢紀の讒言を信じた袁紹に殺害された。
曹操は、もし袁紹が田豊の献策を用いていたら、自分と袁紹の立場は全く逆のものとなっていたであろうと後世に言っている。