猿楽
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猿楽(さるがく猿樂 )は、平安時代から室町時代にかけて流行した日本の芸能。散樂(さんがく。散楽)、申樂(申楽)とも書く。読み方は「さるがう」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を猿楽師、または単に猿楽とよんだ。猿楽という言葉は散楽の転訛したものであるが、言語学的には[n→ru]の音変化は一般的なものではない。散楽が物真似を中心とした滑稽芸であったため、音韻上の類似も相まって、猿との間に連想が働き、遂には音変化して猿の文字をあてるに至ったものと推測される。申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。猿楽は本来神楽だから、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。猿楽が能楽に発展し江戸時代に武家の式楽となった後も、徳川幕府の公式歴史書、『徳川実記』では猿楽と表記された。明治に完全に改称され、以降能、狂言とされた。
[編集] 歴史
奈良時代に中国大陸から、散楽が移入されてきた。散楽は、軽業や手品、物真似、曲芸などの芸能の総称である。朝廷は当初、散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を計った。しかし延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった。
この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが猿楽と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。これらの実態の一部は藤原明衡『新猿樂記』(11世紀中頃成立)に「東人之初京上(あずまびとのういきょうのぼり)」「妙高尼之襁褓乞(みょうこうあまのむつきごい)」のように記録されている。やがて庶民の人気を得ていくうちに、座を組織して公演を催す集団も各地に現れ始めた。
もともと猿楽は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子、神子、鉢叩、猿引きらとともに下層の賎民であり同じ賎民階級の声聞師の配下にあった。
一部の猿楽の座は、社寺の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、やがて社寺の祭礼の中に、猿楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。社寺の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、猿楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「猿樂の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている。