源頼定
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源頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(977年) - 寛仁4年6月11日(1020年7月4日))は平安中期の公卿。村上源氏。
村上天皇の第四皇子・一品式部卿為平親王(952-1010)を父として、左大臣源高明女を母として生まれる。同母の姉に、花山天皇女御で後に藤原実資に再嫁した婉子女王(972-998)がいる。
頼定の父為平親王は冷泉天皇のすぐ下の同母弟でありながら、母中宮安子・外祖父師輔を早くに失い、高明が外戚として勢威を振るうのを恐れた叔父たちによって、幼い弟守平親王(のちの円融天皇)に飛び越され、失意の日々を送った不運の皇族である。その子息は一斉に臣籍降下したが、頼定は次男である。
青年時代に弾正台・近衛府の官を歴任。永祚二年(990年)正月七日、従四位下に初叙され、正暦三年(992年)八月二十八日弾正大弼、同四年(993年)十一月十五日昇殿。中関白家と親しく、長徳二年(996年)四月二十四日、内大臣伊周・中納言隆家の左遷に連座して勅勘を蒙る。間もなく許されたと見られ、長徳四年(998年)十月二十二日、右近衛中将に任ず。
寛弘六年(1009年)三月二十日参議、長和五年(1016年)十一月十四日、正三位に至る。のちに勘解由長官・左兵衛督を兼帯し、寛仁四年(1020年)四月二十二日、検非違使別当を兼ねたが、同年六月八日、病によって出家し、同十一日、四十四歳で薨じた。子は、歌人の従五位上右近衛少将源定季がいた。
頼定は『枕草子』では「宮の中将」「源中将」と呼ばれ、「かたちよき公達」の代表に挙げられる。三条天皇東宮時代の女御、綏子に通じて懐妊させ、疑わしく思った東宮が綏子の異母兄道長に命じて検証させたとか、一条天皇没後、孤閨を託った承香殿女御元子と密かに情を交わし、激怒した元子の父右大臣顕光が手ずから娘の髪を切り勘当したけれども、元子は夜蔭にまぎれて頼定のもとに走り、遂に二女を儲けた話が『大鏡』『栄花物語』の諸書に見える。彼が風流な貴公子として一世を風靡したのは確実であろう。