海人
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海人「あま、うみんちゅ(沖縄方言)、かいと(伊豆地方など)」とは、漁師全般を指す。現在においては、潜水漁を行う人を指す。海人は漁師を指すことがあるが、漁師としての海人は漁師を参照。
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[編集] 概要
海人は、船上で漁を行う者、磯で漁を行う者、潜水して漁を行う者に分けられる。 男性の海人を海士、女性の海人を海女と区別して記されることがあるが、いずれも「あま」と呼ばれる。
古来、海人を主題とした文学作品も多い(例歌 見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず 殷富門院大輔 千載集所載)。能楽作品にも、海人をテーマとした作品がある。この作品に関しては海人 (能)で述べる。
[編集] 歴史
最古の記録は魏志倭人伝にあり、海中へと潜り好んで魚や鮑を捕るとある。また、神奈川県三浦市毘沙門洞穴遺跡より、1世紀前後と見られる鹿の角でできたアワビオコシと見られる遺物が見つかっている。
万葉集などで、讃岐国、伊勢国、志摩国などで潜水を行う海人の記述が確認できる。筑前国などでは白水郎と記されている。このことから、中国、四国地方より東では潜水する海人を海人と呼び、九州地方では白水郎と呼んでいたことが伺える。
万葉集では真珠、鮑などを採取する為に潜ることをかずく、かづく、かずきなどと呼ぶ。現在これらの表現する地方は、伊豆、志摩、及び徳島の一部の海女であり、房総ではもぐる、四国では、むぐる、九州ではすむと呼ぶ。
大正時代まで、磯手ぬぐいを除き、様相は一般の海女とは殆ど差違がない。現在、これらの多くは海人着と呼ばれる全身を覆う白い服を着て漁をする。ウェットスーツが普及した後もその上から磯着を着ることもある。
[編集] 漁法など
[編集] 海女船
一般には小型の木造船舶である。舟には海女の体を温めるため、専用の囲炉裏が設けられている。一般の小型船舶はプラスチック船になりつつあるが、囲炉裏の設置が困難であるため海女船は今も木造船が多い。
[編集] 夫婦海女
地方によっては男女海女(ととかかあま)とも記されている。夫婦で漁を行う。この際、夫が命綱を担当し、妻が潜水を行う。潜水する際に分銅と呼ばれる錘の付いた綱を潜り手が持ち、その落下により急速に潜る。また反対に、上がる際にもこの綱をもち、夫が綱を引き上げる。この作業のために滑車を備える船がある。浮上を補助されれば自力で浮上する場合と比較し、短時間で多くの潜水回数をこなしたり、深い場所に潜ることができる。枕草子における海女の記述はこの海女を指す。
[編集] 舟人海女
磯桶を各々の海女が持ち、舟を使い集団で漁場に赴く。漁場までの距離が長い場合などに行われる。
[編集] 徒人海女
舟人海女同様、磯桶を各々の海女が持ち漁場に赴く。一般に海女のイメージが定着しているのはこの海女である。
[編集] 海女の服装
明治初期または大正の頃までは、上半身裸姿に、腰には木綿の布(磯ナカネという)を巻き付け、頭髪は頭頂にワラや布で髪をまとめて結う「磯マゲ」のをする者が多かった。能登地方では、1960年頃まで「サイジ」という、独特のふんどしを穿いてた。
その後、上半身裸という格好が問題となり、一般に知られるような、上半身に磯シャツ(白木綿の上着)を着て、腰には木綿の布(磯ナカネという)を巻き付け、白の足袋を履いて白の手袋をした後に、白い磯手ぬぐいを頭に巻き付け、磯メガネをして海に潜る格好になった。
地域によっては岩手県久慈市の「北限の海女」の様に、かすりはんてんに赤い帯、フゴミに着替え、白の足袋を履いて白の手袋をした後に、頭に手ぬぐいをした後に磯メガネをして海に潜るところもあった。
潜水服が試用されたことがあったが、作業性が悪いなどの理由で普及しなかった。ウエットスーツは乱獲防止のために数などを制限される場合が多い。
※後に、磯ナカネはフゴミと呼ばれる木綿の短パンに置き換わっていった。
※かすりはんてんは他の地域では磯から上がった時の普段着としても用いられることが多かった。
[編集] 磯笛
海人が呼吸を整えるときに一度に息を吐き出すため、ヒューという音が出る。これを磯笛と呼ぶ。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 関連書
- 大崎映晋 『人魚たちのいた時代』失われゆく海女文化 成山堂書店 (2006年) ISBN 4425947312