浦上則宗
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浦上則宗(うらがみのりむね 永享元年(1429年)-文亀2年(1502年))は室町時代の武将。浦上貞宗の子。美作守。浦上村宗は子(または孫)。
浦上氏の主君の赤松氏は播磨国、備前国、美作国の守護だったが嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺したために滅ぼされていた。則宗は赤松政則に仕え、赤松氏の再興に尽力した。
応仁の乱では山名宗全から領国を奪回するために東軍に属して戦い、赤松氏が旧領国を回復し播磨、備前、美作の守護に任じられたのは則宗の力によるところが大きい。また、文明年間に入ると、伊勢貞親に代わって、則宗が西軍に属していた朝倉孝景の調略工作を担うようになり、文明3年、孝景の寝返りを成功させた。
応仁の乱後、則宗は侍所所司代、山城国守護代を兼ねた。
政則の死後はその養嗣子義村を立て、その権勢は主家を凌ぐようになった。