沖ツ海福雄
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沖ツ海福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - 1933年9月30日)は、大相撲の関脇。
明治43年5月28日福岡県宗像市南郷区に生まれる。本名北城戸福松。
大坂相撲の千田川部屋に入門するが竜神事件で師匠が廃業、大正13年5月場所から東京の若藤部屋に移籍した。昭和6年1月新入幕、この年は1月と5月の東京場所は5勝6敗と1点の負け越しだが3月は8勝3敗、10月は7勝4敗と勝ち越して番付を上げた。昭和7年1月の春秋園事件により前頭筆頭から小結に格上げ、2月は2勝6敗と大きく負け越したが3月は9勝1敗で幕内最高優勝、関脇に昇進した。その後も好成績が続き昭和7年10月には9勝2敗、この場所は大関清水川元吉が同成績ながら番付上位で優勝、同じ9勝2敗の高登渉を加えた3人の対戦が3すくみであり他に瓊ノ浦勇雄も9勝2敗、決定戰があればおもしろかったに違いない。しかし大関を目前にしながら昭和8年9月30日に巡業先の山口県萩で河豚に中って亡くなる。僅か23歳という若さであり横綱も期待されただけに惜しまれた。生きていれば双葉山定次による69連勝を阻めたとまでいわれていることがそれを物語っている。
性格は温厚だが闘志溢れる取口であり昭和8年1月に全勝の男女ノ川登三との割が組まれた日には付人に今日は戸板を持って迎えに来るように命じたという(ただ、勝負は男女ノ川の勝ちだった)。ぶちかましの威力が強かったらしく昭和6年10月には前場所優勝でこの場所大関取りの小結武藏山武の右肘を破壊、昭和8年1月千秋楽には結びに組まれた横綱玉錦三右エ門との割で玉錦の鼻血が止まらず痛み分けとなり弓取が中止されている。
師匠の娘と婚約し将来は部屋を継承することも決定した直後の突然の没でありしかも有望力士、師匠にとってはもちろん春秋園事件で多数の名力士を失なった直後で苦しい協会にとっても非常に痛かったに違いない。