江戸上り
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江戸上り(えどのぼり)とは、薩摩の侵攻以降、琉球国中山王府が徳川幕府に対して送った使節団をさす。 これには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあり、これら使節の往来は1634年から1850年までの間に18回を数えた。
なお、1873年に明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。
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[編集] 旅程・道中
六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より瀬戸内海に入り、浦々を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。
その道中は「異国を支配する薩摩藩」および「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって両者の権威高揚に利用された。そのため行列の服装や備品などはことさら異国風であることを求められ、「大和めきたるもの」はすべて禁止された。
[編集] 文化交流
使節には、琉球音楽を演奏したり琉球舞踊を踊るための要員も含まれており、これらはもちろん将軍や幕閣の前で披露された。また、随行員には和歌・茶道をはじめとする諸芸能に通じている者が派遣されており、これらの人的交流を通して中国と日本の文化が渾然一体となった琉球独自の文化が形作られていった。
[編集] 江戸上り十八回の詳細
- 第一回の江戸上りでは実際は京都に滞在し江戸下向はなかった。
- 第一回・第七回・第八回は慶賀使と謝恩使が同時に派遣された。(下記参照)
回 | グレゴリオ暦 | 干 支 | 中国元号 | 和 暦 | 国 王 | 将 軍 | 目 的 | 正 使 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1634 | 甲戌 | 崇禎7 | 寛永11 | 尚豊王 | 徳川家光 | 慶賀使 | 尚 文 佐敷王子 朝益 |
謝恩使 | 尚 盛 金武王子 朝貞 | |||||||
2 | 1644 | 甲申 | 順治元 | 寛永21 | 尚賢王 | 徳川家光 | 謝恩使 | 馬国隆 国頭王子 正則 |
3 | 1649 | 己丑 | 順治6 | 慶安2 | 尚質王 | 徳川家光 | 謝恩使 | 尚 亨 具志川王子 朝盈 |
4 | 1653 | 癸巳 | 順治10 | 承応2 | 尚質王 | 徳川家綱 | 慶賀使 | 馬国隆 国頭王子 正則 |
5 | 1671 | 辛亥 | 康煕10 | 寛文11 | 尚貞王 | 徳川家綱 | 謝恩使 | 尚 熙 金武王子 朝興 |
6 | 1682 | 壬戌 | 康煕21 | 天和2 | 尚貞王 | 徳川綱吉 | 慶賀使 | 尚弘仁 名護王子 朝元 |
7 | 1710 | 庚寅 | 康煕49 | 宝永7 | 尚益王 | 徳川家宣 | 慶賀使 | 尚 紀 美里王子 朝禎 |
謝恩使 | 尚 祐 豊見城王子 朝匡 | |||||||
8 | 1714 | 甲午 | 康煕53 | 正徳4 | 尚敬王 | 徳川家継 | 慶賀使 | 尚 監 与那城王子 朝直 |
謝恩使 | 向氏 金武王子 朝祐 | |||||||
9 | 1718 | 戊戌 | 康煕57 | 享保3 | 尚敬王 | 徳川吉宗 | 慶賀使 | 尚 盛 越来王子 朝慶 |
10 | 1748 | 戊辰 | 乾隆13 | 延享5 | 尚敬王 | 徳川家重 | 慶賀使 | 尚承基 具志川王子 朝利 |
寛延元 | ||||||||
11 | 1752 | 壬申 | 乾隆17 | 宝暦2 | 尚穆王 | 徳川家重 | 謝恩使 | 向宣謨 今帰仁王子 朝忠(義) |
12 | 1764 | 甲申 | 乾隆29 | 明和元 | 尚穆王 | 徳川家治 | 慶賀使 | 尚 和 読谷山王子 朝恒 |
13 | 1790 | 庚戌 | 乾隆55 | 寛政2 | 尚穆王 | 徳川家斉 | 慶賀使 | 尚 容 宜野湾王子 朝陽(祥) |
14 | 1796 | 丙辰 | 嘉慶元 | 寛政8 | 尚温王 | 徳川家斉 | 謝恩使 | 尚 恪 大宜見王子 朝規 |
15 | 1806 | 丙寅 | 嘉慶11 | 文化3 | 尚灝王 | 徳川家斉 | 謝恩使 | 尚太烈 読谷山王子 朝敕(英) |
16 | 1832 | 壬辰 | 道光12 | 天保3 | 尚育王 | 徳川家斉 | 謝恩使 | 尚 楷 豊見城王子 朝春※ |
17 | 1842 | 壬寅 | 道光22 | 天保13 | 尚育王 | 徳川家慶 | 慶賀使 | 尚元魯 浦添王子 朝熹 |
18 | 1850 | 庚戌 | 道光30 | 嘉永3 | 尚泰王 | 徳川家慶 | 謝恩使 | 尚 慎 玉川王子 朝達 |
番外 | 1873 | 癸酉 | 同治12 | 明治5 | 尚泰王 | 明治天皇 | 慶賀使 | 尚 健 伊江王子 朝直 |
※:往路、鹿児島にて死去。急遽、普天間親雲上朝典が「替え玉」となり豊見城王子役を務めた。
[編集] 関係著書・論文一覧
[編集] 琉球使節自体を取り上げたもの
- 沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室 編『江戸上り 琉球使節の江戸参府』沖縄県史ビジュアル版、2001年。
- 紙屋敦之「琉球使節の最後に関する考察」(『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房、1990年、所収)。
- 紙屋敦之「琉球使節の解体」(『琉球王国評定所文書』第5巻、1990年)
- 紙屋敦之「北京の琉球使節」『月刊 歴史手帖』第23巻6号、1995年
- 紙屋敦之「琉球使節の江戸上り」(『大君外交と東アジア』吉川弘文館、1997年所収)
- 紙屋敦之「琉球の慶賀使について」『歴史と地理』530号、1999年。
- 宮城栄昌『琉球使節の江戸上り』第一書房、1982年。
- 横山学『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館、1987年。
[編集] 近世日本との政治的関係
- 紙屋敦之「幕藩体制下における琉球の位置―幕・藩・琉三者の権力関係―」(『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房、1990年、所収)。
- 豊見山和行「江戸幕府外交と琉球」『沖縄文化』65号、1985年
- 真栄平房昭「幕藩制国家の外交儀礼と琉球」『歴史学研究』620号、1991年
[編集] 琉球使節と国内の関係
- 飯沼雅行「朝鮮通信使・琉球使節通航時の綱引助郷‐摂河両国を中心に‐」『交通史研究』54号、2004年
- 市毛弘子「琉球王子と清見寺」『地方史静岡』21号、1992年
- 大島延次郎「琉球使節の江府参礼」『日本交通史論叢』1939年
- 太田三郎「琉球使節江戸参府の触書」『沖縄県史研究紀要』2号、1996年
- 紙屋敦之「岡山藩と対外関係」『一九九四・一九九五年度科研報告書 岡山藩の支配方法と社会構造』1996年
- 木村吉聡・下鍛冶尚真編『琉球使節の江戸上りと御手洗』私家版、1999年。
- 下関市立長府博物館 編『東アジアのなかの下関 近世下関の対外交渉(特別展)』1996年
- 玉井建也「琉球使節通行に対する「御仕構」態勢について―伊予国津和地島を事例として―」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第51輯第4分冊、2006年
- 豊橋市二川宿本陣資料館 編『琉球使節展図録』2001年
- 古塚達郎「琉球人の墓を訪ねて―江戸上りルートをたどる―」『地域と文化』75号、1993年
- 真栄平房昭「江戸上りの旅と墓碑銘」『沖縄文化研究』21号、1995年
- 三宅英利「琉球使節と小倉藩」『北九州大学文学部紀要B系列』21号、1989年
- 横山学「琉使名古屋通行と貸本屋大惣」(南島史学会編『南島―その歴史と風土―Ⅱ』第一書房、1979年所収)
[編集] その他
- 土田良一『近世宿駅の歴史地理学的研究』吉川弘文館、1994年
- 真栄平房昭「琉球における家臣団編成と貿易構造―「旅役」知行制の分析―」(藤野保編『九州と藩政2』国書刊行会、1984年所収)
- 真栄平房昭「近世琉球における航海と信仰―「旅」の儀礼を中心に―」『沖縄文化』77号、1993年
[編集] その他(国外)
- 朱淑媛「清代琉球国進貢使・官生の病死及び墓葬考」『第二回琉球・中国交渉史に関するシンポジウム論文集』1995年
- 深澤秋人「近世琉球における渡唐使節の編成―19世紀の事例を中心に―」『沖縄文化研究』26号、2000年
[編集] 関係史料
- 池宮正治「資料紹介『儀衛正日記』」『琉球大学法文学部紀要 日本東洋文化論集』1号、1995年
- 小野まさ子「二川宿本陣資料館の江戸上り関係資料」『史料編集室紀要』第27号、2002年
- 紙屋敦之「徳川家康と琉球王の対面に関する一史料」『日本史攷究』22号、1996年
- 津波清「岐阜県内「江戸上り」関係資料調査について」『沖縄県史研究紀要』2号、1996年
[編集] 書評
- 横山学「書評 宮城栄昌著「琉球使者の江戸上り」(南島文化叢書4)」『南島史学』21・22号、1983年
- 和田久徳「書評「琉球国使節渡来の研究」横山学」『南島史学』30号、1987年
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