水野忠徳
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水野忠徳(みずの ただのり、文化7年(1810年)- 慶応4年7月9日(1868年8月26日))は、幕末の幕臣。諏訪頼篤の子。1822年に水野忠長の養嗣子となる。初名忠篤。
禄高500石の旗本であったが、その時の老中阿部正弘に認められ登用されはじめる。1852年(嘉永5年)浦賀奉行を魁に、1853年長崎奉行、1857年田安家家老などをつとめる。1858年には外国奉行に転じて日英修好通商条約・日仏修好通商条約に調印。1859年には神奈川奉行も兼任するが、ロシア士官の殺害事件の責任を問われて西の丸留守居に左遷。
1861年に外国奉行に再任するも、1862年に公武合体に反対して箱館奉行に左遷されて隠退。幕府が倒れた後、病に倒れ1868年、59歳で死去。