武田信光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武田 信光(たけだ のぶみつ、1162年(応保2年)-1248年(宝治2年))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の子で、一条忠頼の弟。別名、石和信光。
子に一条信長、一宮信隆、早川信平、馬淵信基、円井垣光常。
1180年、源頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げた。信光は源義仲と仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に義仲と不仲になってこの話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている。1184年、義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の一の谷の戦いにおいても戦功を挙げた。
本来、家督を継ぐ位置にはいなかったが、兄らを源頼朝に讒言し、次々と謀略によって兄たちを消し、1186年の父・信義の死後、家督を継いで当主となる。そのため、武田家は大きく勢力を減退させた。勢力減退の要因は、甲斐源氏の力を恐れる源頼朝や北条氏の存在と、家督を継ぎたい信光の利害が一致した結果にある。信光は甲斐源氏の勢力減退と交換に家督を継いだ。
その後も幕府に仕えて阿野全成の謀反鎮圧や1213年の和田合戦でも活躍して戦功を挙げた。1221年の承久の乱においても東山道における幕府側の大将として活躍した。その後、出家して家督を子の武田信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した。1248年、87歳という長寿をもって死去。
馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。