武州傳来記
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武州傳来記(ぶしゅうでんらいき)は、享保12年(1727年)に二天一流兵法第五代目、福岡藩の黒田家中であった立花専太夫峯均が、晩年に丹治峯均入道廓厳と号し、隠棲地の潜龍屈において著した開祖新免武蔵の伝記である。
新免武蔵(=宮本武蔵)の伝記としては、熊本の弟子筋、宝暦5年(1755年)豊田正剛の覚書を息子の正脩が編纂した『武公伝』や安永5年(1776年)孫の豊田景英がさらに添削を加えた『二天記』、天明2年(1782年)丹治峯均の孫弟子の丹羽信英『兵法先師伝記』に先立つ最も古いものである。
明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による、初めての学術的研究書『宮本武蔵』通称『顕彰会本』で『丹治峯均筆記』として初めて紹介され、以来通称『丹治峯均筆記』正式の書題は『兵法大祖武州玄信公伝来』とされてきたが、近年写本の校合により、丹治峯均の付けた正式の書題は『武州傳来記』であったことが判明した。
また、これまで『丹治峯均筆記』として紹介されてきた武蔵の逸話はほぼ『顕彰会本』からの引用に限られていて、同書に未掲載の大半の記事が紹介されずに埋もれてしまっていたことがわかった。その中には有名な「巌流島の決闘」や「吉岡一門との決闘」もあったが、『顕彰会本』は『二天記』記事のみ紹介して、内容が相反するためか、異説としてすら紹介されていない。
『武州傳来記』では巌流島の決闘の相手は佐々木小次郎ではなく長門国長府に住む国人津田小次郎という巖流の兵法者で、武蔵の父無二に勝負を挑んだところ無二が断り、「巖流の仕込み剣を恐れて無二辞退に及ぶ」と風評が立った。そのころ弁之助(武蔵)は摂津国(大坂)で弟子を取って兵法を教えていたが、これを聞いて直ちに長門へ下り小次郎と下関で勝負をしようとしたが、許されず、巌流島の決闘にいたったと書かれている。『二天記』に伝える熊本藩公認試合ではなく私闘であり、武蔵のほうが先着して小次郎を待つなど、10を越える通説との相違が見られる逸話となっている。
[編集] 写本
自筆本である原本は不明。写本は福岡市総合図書館本・外題『武州傳來記』と熊本の島田美術館本・外題『兵法大祖武州玄信公傳来』が確認されている。島田美術館本は長年表紙がなく本文が剥き出しの状態にあったと観察され、現在の表紙は後世にカバーとして取り付けられ、本誌1丁目の見出し「兵法大祖武州玄信公傳来」を題箋にして張り付けたものと考えられる。その内部に本来の書題が『武州傳来記』であったことを証明する文言が発見され、福岡市立総合図書館本と合致した。
[編集] 概要
内容は3部構成と附録になっている。確認された2本の写本とも同じ。 欠字のない最善本と思われる福岡市総合図書館本は総墨付き部分は54丁である。まず「兵法大祖武州玄信公傳来」に丹治峯均が若年の頃に3代目柴任三左衛門と4代目吉田太郎右衛門から聞いた話とする開祖武蔵の伝記を34丁。1丁白紙を挟んで次「追加」に2祖寺尾孫之允、3祖吉田太郎右衛門、4祖柴任三左衛門の三人の先師伝記を合わせて11丁。最後に「自記」として、5代目立花専太夫こと丹治峯均自らの事象を6丁記述し、末尾に「小倉碑文」の全文を3丁附録して終わっている。 『武州傳来記』は武蔵一人の伝記ではない。「追加」「自記」部分に、2代寺尾孫之允から3代柴任三左衛門、4代吉田太郎右衛門、そして5代立花専太夫こと丹治峯均本人に至る4代の伝記を付け加えた二天一流5代一書の伝記である。
「兵方大祖武州玄信公伝来」部の内容
- 出自、名前、父無二
- 九歳で無二に勘当される
- 十三歳で初めて試闘
- 十六歳で秋山に勝つ
- 武蔵の関ヶ原
- 弁之助の崖跳び
- 富来城攻め
- 巖流島の決闘
- 吉岡一門との決闘
- 大坂の陣
- 松平出雲守と試闘
- 細川越中守側近と試闘
- 武蔵の島原の陣
- 武蔵の風貌
- 一生福力あり
- 小河権太夫の体験
- 大力無双の高木右馬允
- 塩田濱之丞の手錠
- 入門初稽古で大手柄
- 養子宮本伊織
- 養子宮本造酒之助
- 人の目利き自慢
- 女性を愛し子を生ませた話
- 闇打ちの包丁人
- 将軍家の招きを断わる
- 命終の所を求めて―黒田家
- 肥後細川公に歓迎される
- 若党を無礼討ち
- 青木條右衛門へ訓戒
- 高田又兵衛と御前試合
- 寺尾孫之允と稽古
- 武蔵流
- 庭上の猫
- 武蔵の終焉
- 命終の所と臨終
- 「五巻之書」相伝事情
- 和尚引導を辞す―葬儀
- 武蔵の墓
- 「五巻之書」焼失
- 沢村大学が見舞う
- 生涯の手疵
- 跋、執筆の理由
[編集] 参考文献
- 福田正秀『宮本武蔵研究第2集・武州傳来記』ブイツーソリューション 2005年 ISBN 4434072951