権慄
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権慄 | |
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各種表記 | |
ハングル: | |
漢字: | 権慄 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ごん りつ |
片仮名: (現地語読み仮名): |
クォンニュル クゥンユル |
ラテン文字転写: | |
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権慄(ゴン リツ、クォンニュル(クゥンユル)、1537年 - 1599年)は、文禄・慶長の役のころの李氏朝鮮の将軍。
1592年、文禄の役では開戦時は光州牧使の任にあった。同年7月8日に梨峙の戦いに勝利した(漢城から全羅道侵入のために南下してきた小早川隆景軍を阻止した)。これは文禄慶長の役中の朝鮮陸軍の数少ない勝利の一つであり、功績を認められ全羅道観察使兼巡察使(監司)(全羅道軍司令官)となる。また、1593年に明の援軍が北方から圧迫を加え始めたのに呼応して全羅道から幸州山城へ進出して漢城を脅かした。
碧蹄館の戦いで明軍を破った日本軍は漢城の付け城的な存在である幸州山城の攻略を狙い 幸州山城攻防戦が起きるが、短期決戦の見通しが無く援軍の動きを見た日本軍は攻略を諦めて撤退、権慄は幸州山城を守りきった。権慄が率いた二千余人の朝鮮軍が、宇喜多秀家・小早川秀包・小早川隆景・黒田長政・小西行長・石田三成・吉川広家の合計三万人の軍勢を打ち破ったことは朝鮮軍の士気を高めた。韓国では幸州大捷として三大大捷の一つに評価している。ただし、朝鮮軍も攻城戦後に日本からの圧力に耐えかねて権慄は幸州山城から退去している。
後に都元帥に任命され、戦役中の朝鮮軍の主導的指揮にあたり、蔚山城の戦いなどにも参加した。死後に行われた李氏朝鮮王朝の顕彰では李舜臣、元均と共に功一等と評価された。
参加した主な戦い
1592(文禄1)年 7月 8日 梨峙の戦い VS小早川隆景
1593(文禄2)年 2月10日 幸州山城の戦い VS宇喜多秀家
1597(慶長2)年 12月21日~ 蔚山城の戦い VS加藤清正
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 1537年生 | 1599年没