桃井春蔵
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桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、1825年(文政8年) - 1885年(明治18年)12月3日)は、幕末期の剣術家。幼名は甚助。名は直正。桃井春蔵の名は士学館で代々受け継がれる名であり、直正は第4代桃井春蔵である。
駿河国沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれた。1838年、江戸に出て3代目桃井春蔵の名を継ぐ直雄に入門し、鏡新明智流を学んだ。直正は剣術の才能を師匠に見込まれ、その婿養子にまで取り立てられる。そして1841年、弱冠17歳の若さで4代目桃井春蔵の名を襲名することとなった。
1848年には免許皆伝の腕を持つようになる。ちなみに春蔵の凄さを示す逸話がある。1865年末、春蔵は弟子を連れて京都を歩いていた。すると、新撰組の隊員に出くわし、「道を譲れ。譲らぬと斬るぞ」と難癖をつけられる。しかも相手は抜刀した。このとき、春蔵は「わしはこう見えても剣で腕を鳴らした桃井春蔵だ。お望みなら相手になるぞ」と告げた。新撰組の一員である彼らは、斎藤弥九郎や千葉周作と並ぶ大剣豪の名を知っていたから、慌てて謝罪し、退散したと言われている。このとき、春蔵は抜刀することなく敵を追い返したのだ。
ただし、この逸話は男谷信友の話とも伝えられる。
1866年には幕府から講武所剣術教授方出役に任じられ、幕臣として取り立てられた。1867年には遊撃隊頭取並に任じられている。明治時代には大阪で誉田八幡宮の神官となった。1885年、コレラにより61歳で死去。
士学館は斎藤の錬兵館や千葉の玄武館と並んで江戸三大道場の一つにまで数えられ、「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評された。上田馬之助、土佐藩士の武市半平太、期間は短いが逸見宗助も士学館に入門した一人である。