出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
柳生 俊能(やぎゅう としよし、天保元年(1830年) - 嘉永3年9月13日(1850年10月18日))は、大和国柳生藩の第11代藩主。遠州相良藩主の田沼意正の子で、田沼意次の孫に当たる。官位は従五位下。飛騨守。
幼名は雄七郎。1849年、先代藩主・柳生俊章の養嗣子となり、同年11月に俊章が隠居したため、そのあとを継いだ。田安御門番役を務めた。1850年9月13日、21歳の若さで死去し、後を養嗣子の柳生俊順が継いだ。法号:天真紹性大源院。墓所:東京都練馬区桜台の広徳寺。