板倉勝清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
板倉 勝清(いたくら かつきよ、宝永3年(1706年) - 安永9年5月28日(1780年6月30日))は、江戸時代中期の大名、政治家。官位は従四位下・佐渡守・侍従。はじめ15000石。陸奥泉藩主→遠江相良藩主→上野安中藩主。老中。
板倉重同の長男。勝清の後は長男板倉勝暁が継ぐ。
幕府では長年若年寄を勤め、泉から相良、さらに安中とめまぐるしく増転封を繰り返す。 1747年には分家の旗本7000石板倉勝該が勝清を殺害しようとして誤って肥後熊本藩主細川宗孝を殺害するという事件が発生した。本家筋にあたる勝清が素行不良の勝該を廃嫡せんとしたところ逆上しての事件といわれる(異説もある)。 1769年には老中に起用される。