松平忠昭 (大給松平家)
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松平 忠昭(まつだいら ただあき(ただてる)、元和3年11月25日(1617年12月22日) - 元禄6年9月12日(1693年10月11日))は、丹波亀山藩の第2代藩主。豊後国亀川藩主。豊後中都留藩主。豊後高松藩主。豊後国府内藩の初代藩主。父は松平成重(忠昭は次男)。母は松平康之の娘。正室は酒井忠正の娘。官位は従五位下。左近将監。号は如円。
1617年11月25日生まれ。幼名は主税之助。1633年、父の死去により後を継ぐ。1634年、豊後亀川藩に移封され、翌年に中都留藩へ移封される。1642年に豊後高松藩へ移され、1658年2月24日、豊後府内藩へ2万2200石で入ることでようやく定着した。
1637年、島原の乱においては富岡城の守備を務めた。府内藩の藩政を確立するため、社寺に所領を寄進してその関係を親密にしたり、商人の力を借りて新田開発を行なうなどしているが、藩営ではなく商人の力を借りているところから、すでに藩としての財政基盤の脆弱さを露呈していた。1676年3月27日、子の松平近陳に家督を譲って隠居し、1693年9月12日に77歳で死去した。法号:法林院。墓所:大分市の浄安寺。