松平忠国 (播磨国明石藩主)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 忠国(まつだいら ただくに、1597年9月28日(慶長2年8月17日) - 1659年4月11日(万治2年2月20日))は江戸時代初期の大名。丹波国篠山藩主、播磨国明石藩主。藤井松平家(山城守流)。松平信吉の長男。官位は従五位下、山城守。
1620年(元和6年)に父・信吉の跡を継いで丹波篠山藩5万石の藩主となり、1649年(慶安2年)に播磨明石藩7万石に加増転封された。
1659年(万治2年)2月20日、死去。63歳。戒名、浄源院殿雲誉崇安道覚大居士。京都千本称念寺に葬られた。
娘の1人は、忠国の弟の家・藤井松平伊賀守家へ嫁ぎ、甥・松平忠昭の正室となった。息男の3人には、自身が秀忠将軍から拝領した1字『忠』 を用いる事無く、祖父・勘四郎以来の『信』 を、それぞれに名づけた。山城守を継いだのは信之ながら、信之には兄・信久がいた。どうやら、忠国の隠居前での不幸で、山城守を襲名せずに早世したと思われる。信之の弟に信重。信重は新家を興し、5000石の旗本になったという。